なんとなくバイクを走らせた夜。
寮に戻ると、階段を降りてきた主任と鉢合わせた。
「あれ、凪くんだ。今帰ってきたの?」
「うん。主任は?」
ゆるっとした部屋着姿だから、今からどこかへ出かけるというわけではなさそうだけれど。寝る前に小腹が空いてしまったとかそういう感じなんだろうか。
すると主任は、ちょっと恥ずかしそうに、今日はなんだか寝付けなくて、と眉を下げて笑った。
「だから今からホットミルク作るんだけど、……よかったら凪くんも飲む?」
「ホットミルク……」
「あっでも、今日は深夜ラジオの日だっけ」
おうむ返しになってしまったそれを主任は逡巡の間だと思ったのか、それならやめておいたほうがいいかなと言ったけれど、断りたかったわけでは全くない。夜更かしのお誘いって、ちょっと特別で、すごく素敵な響きだ。
ラジオなら聴き逃し配信もあるからと言って、主任とご一緒させてもらうことになった。
ホットミルク作りも手伝おうと思ったのに、オレがシンクで手を洗っているうちに鍋は火にかけられていて、あとはできることといえば見守りくらいしかない。主任の側にすすすと近づいて、くるりとかき混ぜる手元を覗き込んでみる。
「甘めに作っちゃってもいいかな?」
「……オレ、ちゃんと飲んだことないからよくわかんないかも。甘いのとか辛いのとかあるの?」
「うーん、辛いのは流石にないかな……」
ちいさなミルクパンのなかで、コトコトと牛乳が温められていく。電子レンジを使うよりも優しい味になるんだよと主任が教えてくれたけど、そんなに違うものなんだろうか。おいしくするための一手間、なのかな。
「そのままでも美味しいけど、お砂糖とか蜂蜜とか入れることも多いかな。自分はメープルシロップを入れるのが好き。やわらかくてやさしい味になるんだよ」
「へえ、メープルシロップ」
「あ、勝手に拝借してるの、潮くんには内緒ね」
「うん。潮がスイーツ作ってくれなくなったら困る」
メープルシロップは寮のキッチンに常備されているけれど、フレンチトーストにかける以外の使い道があるなんて知らなかった。
寮で暮らし始めてから、ソニアとふたりきりの生活では一生手に入らなかったであろう知識がどんどん増えていく。みんなから教えてもらった小さなしあわせのかけらを数えるたびに、少しずつ世界が広がっていくみたいだ。
「はい、どうぞ」
あつあつだから気をつけてね、とマグカップを渡されて、受け取った手のひらがじんわりと温まっていく。
ふーっと冷まして、ひとくち。
まだかなり熱かったけれど、
「……おいしい」
「よかった!」
ふんわりあまいそれを飲むのは生まれてはじめてなのに、どこかなつかしい味がした。
今度、ソニアにも教えてあげよう。きっと、小さなからだを目一杯にくるくるぱたぱた翻して、よかったでしゅねって笑ってくれるだろうから。たとえ同じものを飲み食いすることは叶わなくたって、聞いてほしい話が、分かち合いたい想いがたくさんある。
これを飲んでのんびりしているうちにだんだんと眠くなってきて、ぐっすり休めるんだよね。そう言った主任の声は、リラックスして緩み切っているようだけど、……やっぱりまだ寝られそうにはない、のかな。
それなら。
「あの、主任」
「なあに?」
「主任が嫌じゃなかったら、ここで一緒にラジオ聴くの……どうかな」
眠気が来るまでで、いいから。
どうしたって眠れない夜はある。オレがバイクで暗い街を駆けるのだって、ラジオを流してみるのだって、そういう夜を越えるための、おまじないみたいなものだ。
だけどオレは、ひとりでは寂しい夜も誰かとなら怖くないって、教えてもらったから。今夜の主任のためのその「誰か」になれたらって、そう思う。
そして。
「いいね! たまには聴いてみたいなって思ってたんだ」
主任がそうやって笑ってくれるから。
おなかの奥のほうがぎゅーっとなって、ほんのり熱くなって、その熱がじわじわと全身に広がっていく。……花、追加で持ってこないとダメそうだ。
持て余した体温に、今夜眠れないのはオレのほうかもしれないと思った。