卒業後。たぶん同棲中。
デート前の時間が好きだ。
早めに家を出られた日に、遠くからぱたぱた駆け寄ってくる姿を、転びやしないかと見守る時間だとか。
時間ギリギリに到着した日に、そわそわと周囲を伺いながら、たまに前髪や服の裾を気にしている姿を見つけた時だとか。
外で待ち合わせをしていた頃は、彼女には少し悪いとは思いつつ、そのわずかな時間が楽しかった。待たされるのも待つのも案外嫌いではないと気づいた……というより、苦手ではなくしてもらった、というほうが近いだろうか。
最近では待ち合わせることは滅多になくなってしまったけれど、代わりに、彼女の準備が整うまでを待つ時間ができた。
ああでもないこうでもないと、いろんな服を引っ張り出してきて悩んでいる姿を眺めるのは、なかなか悪くない。ずっと見ていると恥ずかしいと怒られてしまうから、本を読むフリをしつつ盗み見たりしている。
「ねえ、珪くん」
「どうした?」
しばらく鏡とにらめっこしていた彼女が、くるりとこちらを振り返った。丁寧にセットされた毛先がくるりと揺れる。
「ちょっと濃い、かな? どう思う?」
右手に持っているのは、たしか、先週新しく買ったんだと言っていた口紅。彼女はときどきこうして俺に意見を求めてくるけれど、一体何を不安がっているんだか。
俺が撮影でプロのスタイリングを受けていることに若干の引け目があるのか、流行やセンスに殊更敏感でいなければとかなんとか思っているのかもしれない。
俺としては、本人の格好がどうというより、こうしてたくさん悩んでいること自体が、かわいい奴だなと思うけど。それはそれとして意見は正直に言わないと拗ねるので、一歩近づいて顔を覗き込んでみる。
なんかちょっと、美味しそうだな。
一度そう思ったら我慢できなくなって、引き寄せられるみたいに、その紅に吸い付いた。
「ん、」
少しくぐもった声が漏れる。
不意打ちに驚いて一瞬強張った彼女の身体が、深く混ざり合う呼吸と一緒に、腕の中で少しずつほどけていく。どこもかしこも柔らかくて、熱くて。甘い毒みたいだ。ゆっくり伏せられた瞼が微かに震えて、揺れる睫毛がきらきらと光を反射した。
どのくらいそうしていただろうか。
ぷは、と名残惜しくも口を離せば、彼女の口紅は当たり前にぼやけていた。
「……ちょっと薄い、か?」
自分の口の端を拭えば、指先が林檎みたいに染まる。味は微妙だけれど、悪くない気分だと思う。
彼女はといえば、まだ軽く肩で息をしている。髪の隙間から覗く耳が赤い。大丈夫かと顔を覗き込むと、ちょっと不服そうな顔をされた。おそらく睨んでいるつもりなんだろうけど、どちらかというと猫みたいだ。
「け、珪くんのせいだよ……」
「そうだな。悪い」
「絶対悪いって思ってないときの顔だ」
「そうかもな」
おまえが可愛いのが悪い、とはさすがに言えないけど。鮮やかな赤を引き直す前にもう一度だけ、軽いキスを落とした。