十二分間

一織 と 陸


Wonder Light 撮影後のはなし


 遊園地は、人生みたいだ。
 世の中にありふれている定型句みたいな思考が頭をよぎる。それは口にするにはあまりに陳腐で、少しずつ遠ざかっていく足下の夜景に、ため息と一緒に溶かしてしまいたくなった。

 空中ブランコ、回転木馬、コーヒーカップに観覧車。
 ぐるぐる回って、行って戻って。遠ざかって、近づいて。
 ジェットコースター、バイキング、フリーフォールに観覧車。
 のぼってのぼって、のぼって、落ちて。

 どんなに高く昇ったとしても、頂に手が届きそうになったその瞬間、あっけなく地上へと引き戻されてしまう。それはまるで人生の縮図のような、或いは自分たちにとって、芸能界の真理のような。人は誰も土から離れては生きられない、なんていうのは、いったいどの作品の言葉だったか。

「ねえ一織、きれいだね」

 すぐ隣ではしゃぐ横顔に、そうですねと適当な相槌を返す。横顔といっても、もこもこのマフラーに埋もれて、緩みきった目元くらいしか見えないけれど。
 ずっと景色ばかり見ていて、こちらのことなんて忘れているのかと思っていたのに。
 無関心に放置されるのはなんだか腹が立つものの、関心を向けられているとそれはそれで文句を言いたくなるのが、一織の面倒くさくてかわいいところだった。

 薄紅色の天使とよく似た少年は、天辺を飛び続けることを望むくせに、それを願うのと同じ口で、高みを飛び続けるのは怖いと言う。だからこそ一織は、見たことのない陸の表情を見る度に怖くなるのだ。彼は、一織の手の届かない高いところへふわふわとひとりで先に行ってしまって、とても危なっかしいから。

「あのさ、一織」
「なんですか、七瀬さん」

 遠くに向けられていた陸の視線が足下に落ちる。つられて下をのぞき込んで、心許なさにぞっとした。ゴンドラには足場がなくて、気持ちまでどことなくふわふわしてくる。高いところにずっと浮かんでいるのは、やはり不安だ。

「その、……やっぱり、怒ってる?」
「何が『やっぱり』なんですか。違いますよ」
「だって一織、さっきからずっと、ここに力がはいってる」
「気のせいじゃないですか」
「気のせいなんかじゃないよ!」

 自分の眉間をとんとんと指先で小突いて見せる陸の、その顔とうっかり真正面から向き合ってしまったことを後悔した。頼むからその表情はやめてくれ、と叫び出したくなる。

 確かに、こちらの顔色を指針にしてと頼んだことはあるし、それを飲んだ彼がステージの上で言葉を違えたことはないけれど。流れ星を降らせ、虹を超えて、客席に魔法をかけてみせた彼は、交わした約束をパラシュートだと呼んでくれたけれど。
 ここは照明の下でも舞台の袖でもなければ、控え室でも、会議室でも、一織の部屋でもないのに。仕事に関わる話をしているときなら冷静に受け止められるようになったこの訴求力の塊みたいな表情も、完全なプライベートの時間に不意打ちで見せられて動揺せずにいられるほど、一織の心は強くはなかった。

「わがまま言ったから怒ってる? 一織、観覧車きらいだった?」
「だから違うと言っているでしょう。そんなことより、ほら、景色を見たらどうですか。高いところから見たかったんでしょう」
「あ、……うん、ごめん」

 なぜこの人は、私が怒っていると思うのだろう。確かに、観覧車に乗ることについては少しだけ渋ったけれど。小言が多い自覚はあっても、常にそういう思考をしていると思われるのは心外である。もう随分と長い時間をともに過ごしてきたというのに、一織の表情に滲む感情を正しく読み取る能力は、それほど簡単には身につかないようだった。
 頼むから、そんな仔犬みたいな目でこちらを見ないでほしい。そんな祈りみたいな願いを言葉の端に込めてみれば、少しさみしそうに、けれども案外と素直に、その視線は足下に広がる景色へと戻された。

「寮とか事務所とか、ここから見えるかな?」
「流石に遠いんじゃないですか。大きい建物でもないですし」
「そっかあ」

 あのあたりかな、なんてそれらしい方角を探す陸の、その少し下がった眉が愛おしい。目元しか見えていなくとも、彼の表情はわかりやすかった。
 こちらを見ないよう努める横顔に、もう一度降り向いてほしくなってしまって、一織は自分のことながら抱えた矛盾に呆れた。こちらを見てほしくないのに振り返ってみせてほしいだなんて、とんだ我が侭である。
 それでも、微動だにしないその視線の遠さに耐えかねて、或いは、記憶の中の仔犬の瞳に抗えなくて、一織は口を開かずにはいられなかった。
 自分でも纏めきれない感情の輪郭を捕まえるように。或いは、言い訳じみた言葉の欠片に許しを請うかのように。

「……本当は、」
「ん?」

 ひとりごとみたいに投げた呟きを拾った彼が、少し緩慢にこちらを振り返った。こちらとの距離を測るようなそのまなざしには、隠しきれていない嬉しさと、少しの戸惑いが揺れる。

「本当は、少しだけ、怖いのかもしれません」

 言葉を選びながらそう切り出せば、もこもこのマフラーから、ぱあぁっとでも効果音が聞こえそうな笑顔が覗いた。

「怖いって、観覧車が? 一織、やっぱり高いところ苦手だった?」

 返ってきた声も心なしか弾んでいて、少しだけむっとする。マジックミラーハウスでの撮影準備中、鏡にぶつかりまくる姿に呆れつつも笑いを噛み殺しきれなかった一織のことを、陸はまだ根にもっているのかもしれなかった。

「なんで少し嬉しそうなんですか。別に、高所にそれほど抵抗はありませんよ」
「だって一織、ジェットコースター怖がってたじゃん。ちょっと可愛げあるなーって思ってたのに」
「あれは別に怖かったわけではないです。少し驚いただけで」
「俺の安全バー、掴んで離さなかったくせに?」
「……」

 言い訳じみて聞こえるけれど、本当に、ジェットコースター自体が怖かったわけではないのだ。確かに三半規管は弱い方ではあるが、絶叫系アトラクションがとても苦手というわけではない。

「じゃあ、一織は何が怖いの?」

 うまく答えられる気がしない上にあまり答えたくもない話題だからと沈黙を貫いてみるが、彼はこちらにはお構いなしに続ける。

「そういえば、この前行ったソライロタワーの展望台でも、ずっと俺の腕掴んでたよね。春に登ったときは平気だったのに」

 言われてみればそんなこともあった。自分でも忘れかけていたことを覚えられているというのは、少しきまりが悪い。
 あの日、ガラスの床を通して地上を見下ろしたとき、一織の足は急に言うことを聞かなくなって、一歩踏み出したところから動けなくなってしまったのだった。咄嗟に掴んだそれが陸のものだったのは、彼がすぐ近くに立っていたせいか、それとも他に理由があったからなのか。それがどちらも正解であることは、一織が一番よくわかっていた。

「もしかして一織さ、」

 彼はこちらの表情を覗き込むように、こてん、と首を傾げた。マフラーから飛び出した赤い髪が、それに合わせてふわりと揺れる。

「空が怖くなった?」

 変なところで察しのいいひとだ、と一織はため息をつきたくなった。『空が』なんていうふわっとした表現を選ぶあたり、きっとそれが物理的高度に限った話ではないことにも勘づいているのだろう。鈍感なら鈍感なりに、ずっと気づかずにいてくれればいいのに。

「だいたいは当たっていますよ。ただ、……そうですね、もう少し厳密に言うのなら……」

 彼がそこまで気づいてしまったからには、なんでもないですと誤魔化すことにもう意味はない。下手に隠そうとして自分の知らないところでうじうじ文句を言われるよりは、素直に打ち明ける方がずっといい。

「怖いのは、七瀬さんと同じ高さにいることが、ですかね」

 もう随分と高いところまで昇ってきてしまった。
 さほど遠くないはずの未来、高い高い塔をのぼってのぼって、一番上まで辿り着けたとき。いつ崩れるかもわからぬその場所で、地面との距離を思い知らされたそのときに、自分は、自分たちは、果たして冷静でいられるのだろうか。墜ちゆく可能性に怯えながら、それでも笑っていられるだろうか。

 そんな漠然とした恐怖を想像してみようとすると、一織の思考の隅には必ず、あの虹のような三人の背中がちらつく。塔の頂上にあと少しで手が届くという場所から勢いよく突き落とされたあの人たちは、それでも地の底から空を見上げ続けて、そして再びここへ舞い戻ってきた。暗い雨が上がればもう一度虹が架かると、彼ら自身が虹になれると疑わずに。或いは、疑わないよう、自らにそう言い聞かせながら。

 雨に歌い、闇に笑い、地獄で踊る。その覚悟を貫いた彼らの強さを思い出して、背筋がぞくりとする。その震えの理由が恐怖なのか興奮なのかは正直なところよく分からないし、しばらくは分からないままでいたいというのが、一織の最近出した結論だった。

「パラシュートは用意していますし、それを使わなくて済むような対策だってもちろんありますけど。正常に作動するかなんてその時になってみなければわからないし、仮にうまく広げられたとしても、着地までうまくいくとは限らないでしょう。
 本当はいつだって、七瀬さんの真下へ特大のふかふかクッションを持って走って行けるように構えていたいんですよ。あなたに何かがあったとしても私が何も起こさせないって、自分で自分に言い聞かせておきたいんです。
 だけど、……一緒に昇ってしまったら、それもできない」

 ああ、こんな情けない話、この人には聞かせたくないのに。

 どこか弁解のような言葉が、一織の思考の上を滑るみたいに口から零れていく。左側から痛いほどの視線を感じるけれど、絶対に振り向きたくない。彼が今どんな表情をしているのか見たくない。なんとなく想像がついてしまうからこそ。

「私だって別に、いつもいつも怖いわけではないんですよ。ここ半年くらいはずっとパフォーマンスも安定していますし、そもそも七瀬さんに対して不安を仄めかすと逆にプレッシャーになりかねない。だから最近はあまり焦らないようにしていたし、実際、焦ることもほとんどなかったんです。でも、」

 肩で息をする陸の後ろ姿が、瞼の裏で悪夢のようにチカチカと揺らめいて離れない。大丈夫、何もなかったじゃないか、と言い聞かせるようにひとつ大きく呼吸をする。

 悪夢は現実ではないからこそ夢と呼ばれるのだ。自分たちが舞台の上で見る夢は、消えない虹だけでいい。そう思っているはずなのに。力をぐっと入れていなければ震えそうなこの手が、あの日の恐怖をずっと覚えている。

「先々週のスタジオ収録のとき、あなた、かなりギリギリだったでしょう」

 こちらを見つめていた双眸がすっと伏せられて、気まずそうに視線が逸れた。あの日は結局何も起こりはしなかったが、危ない綱渡りであったことに違いはないという自覚があるのだろう。
 決して彼を責めたいわけではないのに、なんだか責めるような言い回しになってしまったと少しの後悔が過ぎる。せっかく落ち着けたはずの心臓が、再び大きく揺らぐような気がした。
 いつもそうだ。どれだけ言葉を尽くしたつもりでいても、他人の機微に寄り添う努力がなかなか実を結ばない。なんだかんだ周囲の人間が適切に受け取ってくれてしまうという、恵まれた環境への甘えだろうか。

「あのね、一織」
「はい」

 ごめんとかなんとか言うのだろうと思った。ふたりで喧嘩をしたあと、この声のトーンで話し始めた陸は、どちらが悪いかに関わらず、まずひとこと謝るのが常だから。
 けれどもこれは、一織が勝手に不安になって、勝手に沈んでいるだけの愚痴だ。だから一織は、陸が僅かにでも謝罪を匂わせたなら、デコピンの一発でも喰らわせてやろうと思っていた。
 それなのに。

「さっき環に聞いたんだけどさ。観覧車のてっぺんでキスしたカップルは、絶対別れないってジンクスがあるんだって」

 予想もしない方向へいきなり話題を転換されて、さすがの一織も言葉に詰まった。この男はいま、キスとかなんとか言わなかったか?
 いまこの瞬間の自分を側から眺めたならさぞかし間抜けな表情をしているだろうと、どこか他人事のように思う。

「……何でそれを今言い出すんですか。結構真面目な話をしていましたよね」
「だって今思い出したんだもん!」
「まあ、よくある迷信ですけど……それで?」
「する?」
「は?」
「だから、キス。してみる?」
「な、は、いや、どうして、」
「だって、ジンクスが本当だったら、俺たち、ずっと一緒にいられるよ」

 ね、すごいと思わない? なんて彼が無邪気に笑うものだから、一織は思わず頷いてしまいそうになる。落ち着け、落ち着け、引っ張られるな。
 お願いだから、これ以上こちらの思考回路を掻き回さないでほしい。なにをどう解釈すればそんな発想に至れるのか、何年経とうと彼の突拍子もない発言に振り回される日々に終わりは来ないのだろう。当の本人はけろりとしているのが、なんだか腹立たしいのに憎めないのだからよりタチが悪い。

 一織はとうに諦めの境地へと足を踏み入れている自覚があるけれど、それでも動揺からは逃げられなかった。はあぁぁぁあ、とわざとらしく長く息を吐き出して、なんとか冷静を繕ってみる。

「しませんよ。七瀬さん、そのマスク外せないでしょう」

 そういうのは恋仲にある人たちがやるものでしょうとか、もっと他に言うべきことはあったはずなのに。ぎりぎり踏みとどまっただけの今の一織には、そこを指摘できるほど頭を回転させられる余裕はなかった。

「一織のけち」
「けちで結構」
「かわいくない!」
「かわいくなくていいです。……そんな願掛けをしなくたって、私もあなたも、今更アイドリッシュセブンから離れたりなんてできませんよ」

 わずかに空気が揺れる。それは帽子のしゃらりとした装飾も鳴らないほどに微かで、けれども澄んだ冷たさを纏ってたしかに一織の肌を刺した。陸はいま、息を呑んだのか、それとも吐いたのか。振り向くよりも早く左肩にとすんと重みが与えられて、その表情を窺い知ることはできなかった。

 ねえ一織。
 そう呼びかけられる声に混じった甘さが、今はひどく毒だ。

「ずっと前に、約束したよね。置いていかないから、置いていかないでって。覚えてる?」

 寄せられた体温は、上着越しではよくわからない。毛先がくしゃりと重なるけれど、それはどれだけ交じり合おうとも青と赤のままで、紫にはなり得ない。ひとつのものになんて、天地がひっくり返りでもしなければなれやしない。そんな当たり前のことが、今はもどかしくてたまらなかった。

「忘れられるわけがないでしょう、いつだって覚えていますよ。七瀬さんこそ、たまに忘れてませんか」
「オレだって忘れないよ!」
「……それならいいです」

 置いていくことも置いていかれることも許されないのであれば、手を取り合って進み続けるより他に道はない。そんなことは、一織にだってわかっているのだ。
 たとえ、二人分のおもさで、落下速度が増してしまうとしても。

「確かに、ひとりで飛び続けるのって怖いよ。でも、オレはひとりじゃないってわかってるから、いつまでだって飛んでいられる気がするんだ」

 安全バーを握る手が、夜風に晒されて冷え切っていた。治りかけのあかぎれみたいにピリピリと肌が引き攣って、冷たさと痛みの区別なんてつきようもない。自分の吐息で温めようにも、こんな上空では、余計に凍えてしまうだけだろう。
 こちらに寄りかかったまま、陸がもぞもぞと身じろぐ。横目で見遣ればそーっと右の手袋を引き抜こうとしているところで、彼がそれを無事ポケットに納めるのを確認するまでの数秒間、どうか落としてくれるなよと一織ははらはらさせられることになった。
 もう片方も脱ぐのなら今度は手を貸そうと思ったのに、伸ばしかけた一織の左手は、陸の右手に捕まった。悴んだ指先では感覚が定まらなくて、互いの体温が拾えない。冷たいような、熱いような。このまま繋いでいれば、いつか馴染んで溶け合って、同じ温度になれるだろうか。

「一織は、波に呑まれそうだったオレを引っ張り上げてくれた。光の海を泳ぐ方法を教えてくれた」

 夜空の深い青に、瞬く星々に、眼下で揺らめく街の灯りに、彼は何を思うのだろう。
 遠くに投げられた陸の視線を追うように、一織は地平線を探す。視界いっぱい広がる光が、ステージからの景色と重なった。撮影予定の外でいいから自分も乗りたいと駄々を捏ねたのはこれのためかと、今更ながら合点がいく。

「夢を諦めて百歳まで生きるくらいなら百年分歌って死にたいって言ったオレに、百年歌い続ける選択肢を与えたのは一織だよ。和泉一織が七瀬陸を照らし出して、一番かがやく星にしたんだ。だから、だからさ、」

 都会の星は見えにくい。それが闇の中でどんなに眩しくかがやいたって、人間が作り出す強い光のもとでは霞んでしまう。星空の一瞬を切り取るとき、どうしたって街灯りは無視できないものだから。

 ——では、七瀬陸は?

 繋いだ手をぐっと引かれて、一織の視線は柘榴みたいな深い赤に捕まった。その静かな引力に焦がれて、灼かれて、一織はいまここにいる。

 彼の歌は、彼が降らせる星は、世界中のどこにいたって見つけ出せるだろう。月のない夜だろうと、雲一つない真昼だろうと、彼の眩しさは変わらない。七瀬陸にとって、IDOLiSH7にとっては、駅前の雑踏も満席のホールも等しく大切な光だから。
 そんなこと、一織が一番よくわかっていた。

「だから、自信持って、胸を張って。責任持って、ちゃんと、最後まで俺をコントロールしてね」
「……はい」
「キス、しておく?」
「しません。もうとっくに頂上過ぎてますよ」
「けち!」

 ふたりを乗せたゴンドラが、ゆっくり地上へ近づいていく。それは決して不意の墜落などではなくて、次の高みへ昇るために必要な予備動作だ。

 ゲートをくぐれば、自分たちを待ち構えるみたいにして並ぶ五つの影が見えた。大きく手を振られたので、控えめに振り返してみる。その拍子に繋いでいた手は離れたけれど、もう怖くはなかった。

「最後にみんなでメリーゴーランド乗ろうぜ!」

 はしゃぐ声に顔を見合わせたのは一瞬のことで、色とりどりの光のなか、ふたりは競うように走り出した。


 視界の端で、星がひとつ、流れた気がした。