Yukikaze Kamina
深夜のHAMAハウスは、パーティなどをやっている日を除けば、実は賑やかなことの方が少ない。各部屋の防音がしっかりしているのか、静かな夜を好む者が多いのか……きっと両方なんだろう。
街明かりを眺めながら階段を降りて、静まり返った廊下を抜ける。キッチンまで通り抜けようとパントリーの扉に手をかけたところで、真横のドアノブがガチャリと回って驚いた。もしや侵入者かと防戦の構えをとったものの、するりと滑り込んできた黒い影は、よく見知った姿をしていて。さらりと揺れた前髪の奥と視線がかち合うと、一拍遅れてしまったというように目を見開くのが見えた。
「やべ、」
「添?」
そこはいわゆる勝手口というのか、まあ基本的には使われない裏口だ。添はたまにそこから煙草を吸いにテラスを抜けて裏のほうへ出ていることもあるようだけれど、そうでない外出時の出入りには普通の表玄関を使っているはずで。なにか問題があるわけではなくとも、めずらしいものだという驚きはある。
「おかえり、今日も遅かったな」
「……大学生ならこれくらい普通ですよ」
「そうだな。すまない、別に咎めるつもりはないんだが、そういう言い方になってしまった」
添が夜遅くに出かけているのはいつものことだ。誰かと飲んでいたり、大学の友人との集まりだったり、朝帰りになることだって日常茶飯事。今日は……服装を見るにそのどちらでもなさそうだが、一人でふらっと外出する用事だっていくらでもある年頃だろう。
ところで、俺がここにきた理由は。
「今から礼光の夜食を用意するところなんだが、添も食べるか?」
「え? いや、オレは……」
「遠慮しなくていいぞ。米はちょっと多めに炊いてあるからな」
「遠慮とかじゃないですって」
大会期間中に生活リズムやらなにやら気を使わせてしまっている礼光に、少しでも礼をと思って、ときどきやっていることだ。本当は夜更かしを咎めて寝かしつけてやるべきなのかもしれないが、最近はなにやら根を詰めているようだし、本人が大丈夫だと言い張るのを尊重して軽食の差し入れをするに留めている。
昼班の高校生たちなんかは、キッチンで用意しているタイミングで顔を合わせると食い入るように手元を見つめてくるので、追加でなにか作ろうかと提案すれば目を輝かせて飛びついてくるのだが。どうにも添にはあまり歓迎されない。
極端に少食なわけでも、俺の料理が口に合わないというわけでもなさそうだから、その時の気分の問題なんだろうか。弁当は最近すっと受け取ってもらえるようになったので、それ以外も精進したいものだ。
添はそれ以上近づくなと言わんばかりの勢いでサッと両手を上に掲げ、二歩ほどドアの方へと後退した。よく見ると手やら顔やらが土で汚れている。どこかに躓いて転びでもしたんだろうか。
「オレ、今結構汚いんで。さっさと洗い流しちゃいたいんですよね」
「なるほど。それで裏から帰ってきたのか」
「……何してきたんだとか、聞かないんですね」
「聞いてほしいのか?」
「いや、聞かずにいてもらった方がありがたいですけど」
「それなら、無理に言わなくていい」
「……それはどうも」
喋りながらも、彼はさらにじりじりと下がっていく。別に、心配しなくても触ったりしないのに。
言いたくないことは言わなくていいと言ったのに、添はなんだか微妙そうな顔をした。言いたいのなら話してくれても構わないんだが……たぶんそういうことではないんだろうな。そういう機微を汲み取れなくて申し訳ない。
じゃあオレは行くんで……と廊下を抜けたそうな顔をしている彼に道を譲ろうとした瞬間、きゅるりと腹がなった。俺のではなく、彼のそれが。
「あー……」
「腹は正直みたいだな」
ばつが悪そうに視線を逸らされる。まだまだ成長期なのだから、何も恥じることはないというのに。
「ほら、おにぎりか何か用意しておくから、まずはゆっくり風呂に入ってくるといい。この時間なら貸切だろう」
「…………じゃ、お言葉に甘えて」
こちらと壁との間を器用にするりと抜けて、彼はそそくさと角の向こうに消えて行った。靴下を履いたままだったから、滑ったりしていないといいが……静かにドアの開閉する音が聞こえたからきっと大丈夫だろう。というかたぶん、添はそんなへまはしないか。
では俺も気を取り直して、と改めて引き戸に手をかけたところで、廊下に残された黒に気づいた。添が落としていったんだろうか、それが何かわからないまま拾い上げてみる。
「……? 羽根……カラスか?」
ちょっと血塗れているのは、怪我でもしていたのか、他の個体や猫なんかと乱闘でもしたのか。
シャワーを浴びたいと言った添の様子を思い出す。言われてみれば、少し生臭い匂いがしたような、しなかったような。黒い服でわかりづらくはあったが、彼が汚いと称したのは血痕だったのだろうか。本人が出血しているような素振りではなかったから、もしかすると、通りすがりに道端のカラスの手助けでもしてやったのかもしれない。
「添は偉いな」
この羽根を花壇かどこかに処理したら、二人分の米を握って、ついでに軽いスープでも用意しよう。
添が出会ったカラスが無事だったのか、そもそも血が本当に羽根の落とし主のものだったのかも定かではないが……もしも動物の最期に立ち会うような状況にあったのだとしたら、先ほどの彼の態度のぎこちなさも頷ける。相手がなんであれ、死との対面は心乱されるものだろう。
いずれにせよ、あの硬い表情のままではゆっくり休むこともままならない。風呂に浸かって多少は緩むといいのだが、やはり、こういうときは温かいもので腹を満たすのが一番だ。
添が好きそうな具材は余っていただろうか。夜食を豪勢にしすぎると礼光はあまりいい顔をしないが、汁物くらいなら許容範囲だろう。作りすぎてしまったら主任に差し入れてもいい。そんなことを考えながら、まずはこの手の中の黒を土に埋めるべく、裏口のノブに手をかけた。
今夜のHAMAハウスは、まだしばらく眠らない。
(蛇足)
叢雲添は人を殺したことがあるのか、という問いから生まれた話でした。私は今のところ、ない派です。彼にはまだそこまで覚悟が決まっていないような感じがするし、どちらかというと諜報に特化していそうだな、と。だけど、死体処理くらいならやらされることもあるかなとも思っていて……つまりこれは、死体処理任務から帰ってきたところで雪風と鉢合わせる話です。
添が雪風のおにぎりだとか弁当だとかを受け入れ始めているのがわりと嬉しいですね。ふたりの緩やかな攻防というか、満たしたい人と満たされたくない人の追いかけっこというか。まあ、雪風の天然兄パワーの前では誰もが無力という話になりました。