Yodaka Natsume
カラン。
聞き馴染んだ音が、今夜最初の来客を告げる。
普段から繁盛具合に波のある店ではあるけれど、今日はシフトに入っているバイトもいないからか、いつも以上に静かな夜だ。趙雲に頼んだゆるやかなBGMだけが人気のないホールに響く。たまにはこういう日があってもいいだろうと、ひたすらグラスの磨き上げでもしようかと考えていた、そんなとき。
控えめなドアベルの音とともに入ってきたのは、少しばかり意外な客人だった。……いや、来訪自体はそれほど珍しくない。おいでと誘えば彼は案外素直にのってくるから。意外だと思ってしまったのは、彼の纏うどこか特異的な雰囲気のせいか、単に服装のせいか。
彼が猫のように音もなくカウンター席に滑り込んできたところで、ようやく視線が合った。
「いらっしゃい」
「どうも」
「今日はどうしたい?」
「んー……シャンディガフで」
……やっぱり、いつもと少し様子が違うかな。
少し殺気立っているというか、威嚇中の猫のようというか。もし添が猫だったらきっと毛が逆立っていただろうと思うような、ほんのりとしたひりつきがある。
「添のほうから訪ねてきてくれるなんて、嬉しいね」
「誰かいるかなと思って寄ってみたんですよ。生憎、今日はオレの貸し切りみたいですけど」
「ますます珍しい。キミはどちらかというと、酒の席には静けさを求めるタイプだと思っていたのだけどね」
「……そうじゃない気分の日もあるってことですよ」
「おっと、これは失礼」
少し甘口寄りに整えたそれを彼の前に差し出す。
彼は軽い会釈ののちに口をつけたものの、性急に煽ったりはせず、いつものようなゆったりとしたペースで飲み進めていく。
ということは、なんらかの自棄を起こしてアルコールに浸りにきたというわけではなさそうだ。危ない飲み方でないなら、私から何か言うべきこともないけれど。たとえば孤独を埋めたかったのか、それとも……なんていう詮索は、こういう場では御法度だろう。
「今日のオレ、ちょっと変だなあって思ってるでしょう」
「どうかな。たしかに、いつも私が見ている添とは少し違っているようだけれど……変かどうかは、普通の基準にもよるだろうね」
「いいんですよ、煙に巻くような言い方しなくたって」
そうは言ってもね、添。
添が自分から話をしたくなるような環境を提供できているらしいことは、バーとしては少し誇らしいけれど。無理に喋らなくたっていいんだよと言外に訴えておく。別に、黙ったまま飲み続けたって誰も文句は言わないさ。
趙雲にも何か思うところがあったのか、店内BGMがクラシックからブルースへと移り変わる。
それでも、今の添は本当に喋りたい気分になっているようで。
飲みかけのグラスの縁を人差し指でくるくるとなぞって、彼はそっと目を伏せた。
「今日はね、知り合いの命日なんですよ」
「……そう」
「すごくお世話になったひとだったはずなのに、貰った形見だって大切にしてるのに、オレはその人の墓の場所すら知らなくて」
弔いのひとつも碌にできやしないのに、声も顔も名前すらもあやふやなのに。普段は忘れたふりをして封じているはずの記憶だけが、ぽろぽろと溢れてくるんですよね。
ぽつりぽつりと語られるその声は、今までに聞いたことのある添のどれとも違う、不思議な硬度を持っている。それは緊張なのか、感情を出すまいとしているのか。
タイミングを見計らってはおかわりとチェイサーをさしいれつつ、私には相槌を打つことしかできないけれど、もはやこちらが聞いているか否かも構わないというような様子で淡々と話は続いた。
「最後に一回くらい、一緒に飲んでみたかったかもな」
「それなら、まだ可能性はあるんじゃないかい?」
「……死んだんですって、もう」
「おや」
添に出したものと同じ形の、空のグラスをひとつ。彼の隣のテーブルに、ことりとおいてやる。
今の添は、たぶんちょっとだけ酔いが回っているはずだ。普段の彼なら取り合おうとしなかっただろうけれど、少しくらいならこういう遊びにも付き合ってくれそうだと踏んで、とんとんとグラスを叩く。
「もしかしたら、訪ねてくるかもしれないよ?」
今日、添がここにきたみたいにね。
彼の肩がぴくりと揺れた。ちらりと隣を見遣って、再び自分のグラスに視線を落として。……どうやらうまく効いたかな。
どうも、と掠れた声が言う。
お気に召したようで何より、と返しておく。
ここはバー夢十夜。静かなおしゃべりと、癒しに浸るための場所だ。彼が少しでも前を向く気になれたなら、それだけで上々。
けれどもどうやら、今夜は少しばかり効きすぎたようで。
「でもね、夜鷹さん」
「?」
急に普段のへらりとした調子に戻ってグラスの中身を一気に煽ったかと思うと、彼はこちらをみてにっこりと笑った。いつも通りのように見えて、不気味の谷とも言うべきか、そこはかとない違和感が滲む。若いの子の機微というのはなんとも複雑で気まぐれで、だからこそ面白い。
「オレ、待ち合わせするときは、待つより待たせる方が好きなんですよね」
だから今日はこれでおしまい。
そう言った添がするりとスツールを降りて、来たときと同じように静かに帰っていったあと。彼のいた席に残されていたのは二人分の支払いで、本当に読めない子だと苦笑するしかなかった。
再び静かになった店内で、使われなかった待ち人のグラスが独りでに転がって割れてしまったことは、私と趙雲だけの秘密。
(蛇足)
叢雲添から死の匂いを感じたくてこういう話になりました。これも絶対伝わらないだろうと思うんですが、添はたとえ世界で一番大切な人が死んでしまっても後追いはできないんだろうな、でも死者が魂だけ戻ってくるとかそういうことも全く信じていないだろうから、彼にできるのは極々稀にひとり静かに感傷に浸ることくらいなんだろうな……みたいなことを捏ね回した結果がこれです。
ちなみに相手は二曲輪の九番目のつもりで書きましたが、この辺りの情報が本当に薄い上に添のモノローグしかないので、すべてが捏造ですって注意書きを入れるべきでしたね(全部そうだよ)