序章


 遥か昔、日本ではまだ平安の都が栄えていた時代に、地球で起こった出来事である。
 かつて、この地に降り立った月の都人がいた。罪を犯した罰として地球に送られてきたという姫君││そう、かぐや姫だ。翁と嫗に大切に育てられた彼女はやがて、多くの人々に惜しまれながらこの星を去った。
 月の人々は冷たいガラスの心をもち、穢れた地球を嫌っていた。羽衣を羽織ることでそれらの感情はより強いものとなり、人間への愛を示すことは決してないとされていた。
 けれど。
 その中に、ただ一人だけ、例外がいた。不可解な脳味噌をもった人間という名の生物に興味を示し、灰色と緑と青で彩られた地球を美しいと思った少女が。
 彼女はもともと、名家の娘であるかぐや姫の、側仕えとして働いていた。遠くの宇宙に浮かぶ地球を仕事の合間に眺めては、いつか行ってみたいなあと考えていた。
 そんなある日、かぐや姫が親の怒りを買い、流罪とされた。流刑地として選ばれたのが、地球だった。数年の後に姫が帰ってくる際に、彼女は迎えにいく役を買ってでた。もちろん主を大切に思う気持ちもないわけではなかったが、大きな理由はやはり、地球への憧れであった。
 地球へと向かった彼女は、こっそり抜け出して他の侍女たちとは別に行動し、地球のあちこちを見て回った。もともと日本人とよく似た姿をしていた彼女は特に怪しまれることもなく、周囲の人々からは、単に「遠くから来た旅人なのだろう」ぐらいの程度に見られていた。
 夢中になって地球を観光している間に、彼女は、他の侍女たちやかぐや姫が自分を置いて月へ帰ってしまったことに気がついた。けれど彼女はそれを悲しむどころか、むしろ喜んでいた。一生地球で暮らしていける、と。
 少女は、かぐや姫を育てていた翁たちの家で居候を始めた。姫の側仕えだったこともあり、翁たちは彼女を歓迎し、我が子のようにかわいがった。彼女は地球の人々に『月影月紗』と名付けられた。
 月紗は、今は亡き母親の形見であるペンダントを持っていた。アクアマリンとムーンストーンで三日月形にかたどられたそれには、魔法の力をもつ者が手にすると月光に包まれるという、不思議な性質があった。月の人である月紗が手にすれば、当然それは光り輝いた。
 長い間地球で楽しく暮らしていた月紗だったが、その生活もやがて終わりを告げた。
 自分の側近だった月紗が地球にいることを知ったかぐや姫が、その命を狙うようになったのだ。
 地球には存在しない魔物が時空を切り裂き訪れて彼女を背後から狙ったり、月の王宮の騎士団がわざわざ地球に出向いて戦いを挑んだりと、月紗は、いつ命を落とすか分からない危険な状況下に置かれた。
 長い戦いを経て月紗は月軍に勝利して平和を取り戻したが、最後の戦いでとどめに放った一撃により、自らの命を削ってしまった。その技は、使うことで周囲のすべての穢れを清めることができるかわりに、あまりにも高度な技術を駆使しなければならない為に九割九分九厘九毛九糸の確率で失敗し、また心身のエネルギーをかなり消耗する為に、魔法を放つ者は九割九分九厘九毛九糸の確率で力を失ってしまい、さらに九割九分九厘九毛九糸の確率で命を落としてしまうのだ。
 そうして月の兵士軍と月紗がお互いに瀕死の状態で——兵士の多くはすでに死んでいるようだったが——倒れていたとき、かぐや姫が地球に降りてきた。彼女は他の月の者とは違い、地上五メートルの空中に留まるようなことはしなかった。かぐや姫は地に足を着けてつかつかと月紗に歩み寄ると、感情のない淡々とした声で告げた。その中に、聞き慣れたおっとりとした口調は陰も形も無かった。
「今の私たちには、あなたに勝つことはできません。それは、あなたが地球の人間に影響を受けたからなのかもしれません。それはもう仕方のないことです。
 けれど私は、どうしてもあなたを倒さなければなりません。月の者であるあなたが地球にいるということは、私たちに対する裏切り行為と見なされるからです。
 地球で過ごした思い出はもう、私の中には残っていません。ただ罰を受けていた事実があるだけです。
 月都の姫に戻った今の私にとって、人間は敵でしかないのです。私は地球と人間が嫌いです。忌むべきものだと思っています。
 覚えておいて下さい。いつかあなたの子孫に力をもつ者が現れたとき、私たちは再び此処へやってきます。その頃には私たちも強くなっているでしょう。その子と一緒に地球の人間たちも焼き払いますから、そのおつもりで」
 ではさようなら。かぐや姫はそう言い残して、兵士たちと共に立ち去った。黒く艶のある長い髪が、甘い香りを残していった。それは、月紗が仕えていた頃には一度も使っていなかった、けれどどこか懐かしい香だった。
 月紗はほんのわずかに残った力で、自分の子孫に向けて手紙を書き、ペンダントを桐箱にしまって娘に託した。手紙には、力をもった自分の子孫に向けてのメッセージが記されていた。桐箱には、力を持った者しか開けることのできない魔法がかけられていた。
 話を聞かされた娘が涙をこらえ、すべてを悟ったように頷くと、月紗は淡く微笑んで息を引き取った。彼女の笑顔は幸せそうで、けれどどこか哀しそうだった。
 それから数百年たった今まで、誰ひとり桐箱を開くことはできなかった。ただ手紙と共に大切に保管され、様々な災害や戦争からも守られてきた。
 彼女の生涯については、先祖代々語り継がれてきたものを伝え聞いた私がいま、ここに記した。

 これはそんな月影月紗の運命を背負った、ひとりの少女の物語。