第1章 朔弥と昴
長い雨が止み、久しぶりに眩しい太陽が乱層雲の隙間から顔を覗かせた、ある六月の朝。
高い位置に結い上げた長い黒髪を爽やかな風になびかせながら、閑静な住宅街をひとりの少女が駆けていく。カタコトと音を立てて弾む小さな赤いランドセルが、その身長や大人びた容姿の割に幼い彼女の年齢を物語る。
彼女は学校に遅刻しそうなのか、全速力で走っている。しかし何故だろう、猛スピードでありながらも、彼女の足取りはまるでスキップでもしているかのように軽やかだった。
ふと、少女が足を止めた。しかしそれは目的地に到着したからではなく、なにか気になるものを見つけたからのようだった。
彼女は振り返ると、宙に手をかざした。そのてのひらで空気を薙ぐようにしながら何かを呟く。一切の淀みなく行われたそれは、何百回と繰り返されてきた作業のように彼女に馴染んだものだった。
「よし、これで大丈夫」
なにが大丈夫なのかはさっぱり分からないが、どうやら世間一般の人間には見えないものが、彼女だけには見えているようだった。この少女には魔法が使えるのだ、本来は存在していないはずのものを見ていたとしてもおかしくはない。
ほっとしたように再び歩きだす少女だったが、遠くで鳴りだした始業チャイムを耳にすると、次の瞬間には光のような速さで駆け出していた。
彼女がいた場所には、建物の隙間から降り注ぐ眩しい日射しだけが残されていた。
「あら、月影さんは欠——」
「すみません、遅れました!」
欠席確認中の教室に慌てて飛び込んできたのは、先程の少女だった。きちんと束ねていたはずの長い黒髪は乱れており、激しく肩で息をしている。
担任が遅刻した彼女を叱責するかと思われたが、そんなことはなかった。三十代前半の若い女性教員は何も言わずに、むしろ労るような温かい視線を少女にむけて、扉に一番近い位置にある彼女の席に着くよう促した。
朝の会(という名の学活)が終わると、数人の女子が少女の机を取り囲んだ。とはいってもそれは友達と雑談をするためであり、決して、先生に贔屓されているようにしか見えない彼女を虐めるためではない。
この少女は全身全霊と人生全部を懸けて、自らの生によって訪れる災厄から、この月姫の街を、そして全世界を守っている。みんなはそのことをきちんと理解しているのだ。
「朔弥、おはよ」
今日は何をしてきたのかと尋ねるクラスメイトに、任務を果たしていただけだよ、と朔弥は小学生離れした台詞を、まるで昨日の夕飯の話をしているかのような、なんてことのない調子で答えた。
「空気が歪んでいたの。繕ってきたよ」
「また?」
彼女の能力をもってすれば、それは大したこともない作業なのだが、その「空気の歪み」が何を指しているのかよく知っているみんなは、ここ最近それが頻発していることで、恐怖に近い感情を抱いていた。
この月姫市には、竹取物語に関する伝説が残っている。地元ではかなり有名で、学校の授業で扱われることもある程だ。けれど中には誤解されたまま伝わっている内容も多く、正確な情報を知っている人は少ない。この生徒たちが真実を知っているのは、朔弥が彼らに教えたからなのだ。
「朔弥、これ」
さっき配られたやつ。隣の席からそう言ってプリントを差し出したのは、学年で、否、学校で一番の容姿を誇る(当の本人はそんなことにはまったく気づいていないが)男子生徒だった。毎年六年生が勝手に集計し作っている男女別校内ランキングの男子部門で六年間連続堂々一位の彼は、朔弥にとっての幼馴染であり、遠い親戚であり、唯一の理解者なのだ。
「名字で呼んでって言っているでしょう?」
昴ったら昔の癖が直らないんだから、と朔弥はふてくされたように言いながらプリントを受け取った。その頬が少し紅潮しているように見えるのは気のせいなのだろうか。
「今更すぎて、月影とか違和感しかない」
そういう朔弥だって名前呼びのままだろ、と文句を言う昴を無視して、朔弥はプリントにさっと目を通した。修学旅行は二泊三日の日程で行われるらしい。今年こそは行けるかな、とぼんやり考えながら彼女はプリントをしまった。
ふと朔弥が顔を上げると、そこにはまだ彼が立っていた。朔弥はその端整な顔をついと背ける。昴は苦笑気味に前髪を掻き上げ、仕方なくその場を離れた。女子の間で黄色い悲鳴があがる。その気障っぽい仕草も、彼がすればなぜかまるで嫌みがなかった。
「一時間目始めるよ〜」
算数の教科書を手にした担任が声をかけると同時に、軽やかなチャイムが鳴り響く。朔弥は未だ昴について騒いでいる女子たちをぼんやり眺めながら、授業の用意を始めた。
その日の授業は、先生がずっと溜めていたテストの一斉返却から始まった。教科書に沿った業者作成のテストだけでなく小テストなども多数あるため、総数は十五枚近くになるのではないだろうか。
このような返却は出席番号順におこなわれるので、必然的に男子からとなる。結果を見ないまま鞄にしまう生徒や無駄に他人の点数を知りたがる生徒、うおーっという謎の叫び声を突然あげる生徒など、その反応は様々だ。
これが女子の番になれば、その喧騒も多少は治まる。周りにばれないよう、自分の点数をそっと覗き見てすぐに片付けるからだ。
けれどもやはり、他人、それも成績優秀者の結果はどうしても知りたいらしく、あちこちで駆け引きが始まる。なぜか朔弥はよくターゲットにされ、気づけば点数は学年全体に広まっている。別に知られても困りはしないのだが、聞いてどうするのかという疑問は、小六になった今も未だに解決されていない。
「朔弥は何点だった?」
「いつも通りだよ」
「えーっ」
もはや恒例となりつつある朔弥の適当な受け流しに、また満点なのぉ? と教室中がざわめいた。ここ数年間、彼女のテストは全て満点なのだ。この様な生徒はよく陰口を叩かれたりするものだが、これは朔弥の地道な努力によるものだと知っているので、みんなは彼女を尊敬の眼差しで見ている。中には勉強を教えて欲しいと頼む人もいるようだ。
先週の席替えで朔弥の隣となった昴は、自分のテストを一瞥するとすぐに鞄の中にしまった。毎回満点を叩き出すことはさすがにできないが、九十点以上が普通だ。彼もまた、成績優秀者の枠に認識されている。
昴は、朔弥がこっそり吐いた溜め息を聞き逃さなかった。常に完璧である為に彼女は普段の生活から神経を使っており、かなりの疲労が溜まっているのだ。
なぜそんなに完璧でいたいのかと、昴は何年か前に尋ねたことがある。すると朔弥は、珍しく挑発的な笑顔で、こう答えたのだ。
「親を見返してやるのよ」
だってものすごく悔しいんだもの、と。
昴が話を詳しく聞いたところによれば、どうやらそれは、両親への挑戦だったらしい。
四年前、朔弥が自慢げに九十八点のテストを見せたとき。褒めてもらえると思っていたのだが、残りの二点について、ミスをしたのは馬鹿だからだと親に言われたらしい。そしてそこから、私は勉強をしなくても私立難関高校に合格したけど、というよくある親の自慢話が延々と続いたのだという。
その後も同じようなことが何度かあって、朔弥は親に褒められたいと強く思うようになり、またそれと同時に、親を見返してやりたいという復讐心が頭をもたげたのだ。そして血の滲むような努力を積み重ねた結果、今に至るということらしい。
負けず嫌いを極めるとこの域に達するのかと、未だに騒がしい教室の片隅で朔弥の横顔をぼんやり眺めながら、昴はそう思った。
宿題に頭を悩ませながら帰宅し自分の部屋に入った朔弥は、はあとため息を吐いた。勉強机と座卓と本棚と箪笥しかないに等しいそこは、小学六年生女子の部屋にしてはあまりにも簡素だった。けれど彼女は普段からデザインよりは実用性を重視することが多く、また昔からこの殺風景に慣れているため今更気にすることもない。
朔弥は座卓の側へ無造作にランドセルを置き、机の引き出しに保管してある鍵を取り出して金庫の扉を開けた。小学生の自室に金庫とはどうかと思うが、彼女には厳重に保管すべき物があるので仕方が無い。父親が玩具売場で見つけてきたという比較的小さめのそれは本物同然に頑丈で、大事な物をしまうにはちょうどよかった。
解錠された金庫の中から朔弥が慎重に取り出したのは、所々に傷はあるが割と保存状態のいい巻物と封筒、そして桐箱だった。おそらく月影月紗に関係のある品だと思われる。
朔弥がそれらをそっと机の上に置いてランドセルに手を伸ばしたとき、こつこつと部屋の窓ガラスを叩く音が聞こえた。不審者でもない限り、家の外から誰がそうしているのかは考えるまでもない。
「どうしたの?」
たとえ両家の間が四十センチしかなくても危ないからやめた方がいいわよ、とどこか説教じみた調子で呟きながら朔弥はカーテンを開けた。そこにはやはり、向かいの家の窓から軽く身を乗り出した少年がいた。
朔弥は携帯電話を持っていないため、電話をするときは家の固定電話を使わなければならない。親の目のある場所で友達と通話することは気が引けるため、クラスメイトなどには、何かあれば件名を「月影朔弥」としたメールで彼に連絡するよう頼んである。その件で彼が窓を叩くことも多いため、今日もそうかと思ったが……どうやら、青い携帯電話を持っていないところからして違うようだ。
星影家の東側二階、ちょうど朔弥の部屋の隣に位置しているそこは昴の部屋だ。朔弥と彼は幼い頃から一緒にいるが、それは十一歳の今も変わらず、よくお互いの家を行き来する。けれどいちいち玄関を通るのが面倒くさくなった最近は、この窓をくぐって相手の部屋に入っているのだ。
「宿題やろうぜ」
一緒にやればはかどるしさ。昴はそう言って手招きする。手伝って欲しいだけなのではと朔弥は溜め息を吐いたが、実際自分も悩んでいたため、誘いに乗ることにした。
荷物を彼に手渡した朔弥は、ステンレスの窓枠に足をかけて隣家に飛び移ろうとした。彼女の身体能力は人よりもかなり高いが、念のために昴は手を差し出す。朔弥を支えるその姿は姫君を守る騎士のように優美で、そうするのはとても自然なことに感じられた。
たんっと軽く床に着地すると、朔弥は藍色のソファに腰掛けた。その場所から見える景色は、小学六年生男子の部屋にしては少し落ち着いているものの、自分の部屋よりはよっぽど子供部屋らしいと朔弥は思った。
それじゃあやろうかと、朔弥は自分の荷物から原稿用紙を取り出した。今日の作文のお題はは『将来の自分』だ。朔弥にとってこの類の宿題は苦痛でしかないのだが、卒業文集に載せる文の下書きだと言われれば仕方なくやるしかない。
朔弥は封筒を手に取った。これを開けば、月影月紗が予言した朔弥の将来が記されている。何度も何度も読み返したおかげで、朔弥はそれを、冒頭部分であれば一言一句違わずに暗唱できるようになっていた。
私の魔力を受け継ぐ子が生まれるまで、月影の血を絶やしてはならない。
その子供は七夕の夕刻に生まれ、朔弥と名付けられるだろう。その頃、月影家の隣家には、昴という少年が生まれるだろう。星影家は月影家の分家であるから、彼には朔弥を支えていってほしい。ふたりは運命共同体として、仲良く成長していくだろう。
朔弥が七歳になる頃から、月の魔物が地球を訪れて彼女を襲おうとするだろう。朔弥だけでなく、人間をも滅ぼそうとするだろう。時空の裂け目を通ってやってくるから、空気の綻びを見つけたら繕う必要がある。
なぜ平安の時代を生きた月紗が現代の言葉を綴れたのかという疑問はともかくとして、手紙には他にも予言や指示が細かく書かれている。内容だけであれば、朔弥はこの後も正確に暗記している自信がある。その中には目を背けたくなるようなものも、外れたらいいのにと願わずにいられないものもある。けれど噂によれば、月紗の予言は九割九分九厘九毛九糸の確率で当たるらしい。そのため、これからもずっと予言通りなのだろうと、朔弥はそう思っている。
彼女が誕生してペンダントの入った桐箱が開いた瞬間から、朔弥と昴はその予言をたどってきた。けれど、他人に決められ、事前にすべてを知らされた人生とは、あまり気分のいいものではないと言うのが朔弥の本音だ。
果たして真実を作文にしてもよいのか迷いながらも、朔弥は鉛筆を動かし始めた。大人はともかく、卒業文集を読んだ友人たちは少なからずショックを受けるかもしれない。何故なら彼女は彼らに、自分の最期について告げていないからだ。信頼していないのだと捉えられるかもしれないが、それは朔弥がいきついた最良の方法だったのだ。
朔弥はふと思い出した質問を、目の前で作文の内容に困っている少年にぶつけてみた。
「昴の夢って何?」
それは、朔弥がずっと避けてきた話題だった。彼の夢は自分の存在の所為で叶えられないという、そんな事実に直面してしまうのが怖かったからだ。いつか聞かなければならないと分かっていても、彼女にとって最後の頼みの綱である昴から手を離すのは、とても辛いことなのだろう。
そんな朔弥の心情を察したのか、昴はたっぷり十五秒間ほど考え込んだ後、にっこり笑った。彼のその優しい表情と眼差しは、朔弥を安心させるのには十分だった。
「俺の夢は、」
質問の答えを耳元に囁かれた朔弥は、さっと頬を紅く染めた。それはおそらく、彼の行動と台詞による恥ずかしさからきたのだと思われる。彼女は慌てたように小声で「バカ」と呟くと、作文の続きを書こうと机に向かった。しかし、その手は全く動いていない。耳まで真っ赤な朔弥を見た昴は、悪戯が成功したやんちゃ坊主のような笑みを浮かべた。
彼が朔弥に告げた夢が本気なのか冗談なのか、それは誰にも分からない。昴の真意は掴みにくいのだ。けれどもし真実でなかったとしても、嘘だったと本人が言うまでは彼の言葉を信じていようと、朔弥はそう思った。
彼女の頬は未だ紅潮している。高鳴った鼓動も、いつまでもおさまりそうになかった。