第2章 夏休みの一日


 しばらくの間気を失っていた朔弥は、保健室のベッドの中で目を覚ました。まだ少し朦朧とした意識のままうっすらと瞼を開くと、彼女の視界に入ったのは幼馴染である昴の心配そうな表情だった。彼は朔弥が起きたことに気づくと、思わずといったように安堵の溜息を漏らした。
「みんな心配してたぞ」
 特に女子たちと先生が。一言そう付け加えるあたり、彼女が倒れたときに一番慌てふためきパニックに陥っていたのが自分だということは、本人には口が裂けても言いたくないのだろう。まあこの程度の恥じらい、小学校高学年の男子にとって珍しいものではない。決まり悪そうに空中を泳ぐ彼の視線で感づいたのか、朔弥は苦笑気味にごめんと呟いた。
 訪れた少し気まずい空気を察したわけではないのだろうが、用事があると昴に告げて保健教諭は部屋を後にした。それを見届けた昴は、一瞬のためらいの後に口を開いた。
「言ったほうが良いと思う」
 朔弥が抱え込んでいることを、みんなに。
 少女は、少し困ったような、今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべた。それは彼女が話を曖昧に終わらせようとするときの癖だ。昴はそれをあっさり見抜き、諭すように言った。
 隠したままだと後からこじれる。真実を教えればみんな協力してくれるはずだからそのほうがいい、と。
 けれど朔弥は、ゆるく首を振った。
「……これ以上傷つくのは嫌なの」
 自分の生まれもった事情について、朔弥はクラスメイトに一言も告げていない。必然的に学校の授業で習わされるまでは、黙っておきたいらしい。
 生まれたときから、事情を知るものは彼女を嫌悪していた。それほどに彼女の背負うものは大きかったのだ。誤解によって大人たちからずっと向けられてきたあの視線を同級生からもぶつけられるのは、相当辛いことなのだろう。
「昴は、大きなリスクを背負ってでもやってみる価値があると、そう思うの?」
「俺は自分の思う最良を提案しただけだ」
 朔弥が言いたいなら協力するし、言わずにおきたいならこの話はなかったことにする。昴はそう言って、いつもどおりのまっすぐな瞳を朔弥に向けた。束の間の沈黙が訪れる。
 しばらく視線を絡ませていたふたりだったが、先に目をそらしたのは朔弥だった。少し紅潮した頬を隠すかのように俯くと、彼女は諦めたような、けれどどこか悔しさの滲む口調で呟いた。それなら前者で、と。
 朔弥が前髪の隙間から昴をのぞき見ると、彼は満足そうに笑っていた。二人で意見が割れたときはいつもこうだ。朔弥が先に折れることになる。それもこれも眉目秀麗な昴がまっすぐ自分を見つめてくるからだと、彼女は言い訳がましく心の中で呟いた。
 そのとき、用を終えたらしい先生が保健室に戻ってきた。体を起こしている朔弥に気づくと、彼女は少しほっとしたように笑顔を浮かべる。その瞳の奥を覗いた昴は、保健教諭が朔弥をひとりの生徒として扱っていることを確信した。大半の大人が彼女を「月影月紗の子孫」として見ていることを、本人は嫌がっているのだ。
 それじゃあ俺たち帰りますね、と昴は立ち上がった。朔弥も慌てて上履きを履く。彼がそっと彼女の手を取るその仕草はどこか姫君を扱うかのように恭しく、けれどとても優雅で自然だった。
「あんまり無理しちゃダメよ?」
 身体壊すと彼氏に心配かけちゃうからね、とからかうように笑う先生に見送られ、赤面しつつ二人は保健室を後にした。どちらも否定の言葉は口にしなかった。
 ふたりが教室に戻ると、ちょうど授業が終わり休み時間となっていた。あいにくの悪天候のため校庭にでている児童はおらず、また今日は図書室解放も行われていないため、担任を除くクラスの全員がその狭い部屋に居るといって良かった。
「あ、朔弥だ」
 おかえり。大丈夫? 朔弥の姿を目にしたとたん、教室の片隅で集まって談笑していた女子たちが彼女を取り囲み、心配したんだからね、と口々に言った。
 いつの間にか、繋がれていた左手はほどかれていた。けれどその手のひらには微かな温もりが残っている。軽く肩を小突かれて振り返れば、昴と目があった。彼の唇が音を紡ぐことはなかったが、朔弥は微笑んでクラスメイトのほうに向き直った。
「……ちょっとだけ、聞いてくれる?」
 戸惑いつつも頷いた級友たちを適当な席に座るよう促すと、彼女は言葉を探りながら話し始めた。

 自分は月影月紗の子孫であること。
 生まれつき魔法が使えること。
 実は昴が少し遠い親戚であること。
 月の魔物から命を狙われていること。
 その所為で地球にも被害がでていること。
 自分でもそれなりに対処していること。
 けれど世間からは疎まれていること。

 朔弥は、伝説と月紗の手紙の内容と自分の思いを、話せるぎりぎりまで素直に語った。その間、みんなは黙って彼女を見つめ、話を聞いていた。
 張りつめた空気の中、昴は朔弥が震えていることに気がつき手を伸ばした。けれど彼女がそれをそっと制止した。それは、ひとりの少女が口を開く気配を感じたからだった。
「ずっとずっと大変だったんだね」
 朔弥より背の低い優羽は、踵を上げ背伸びして、くしゃりと朔弥の頭を撫でた。その仕草はまるで仔猫をあやしているかのようだったが、何しろ身長によるギャップが大きい。誰かがくすりと笑ったことでほっと緊張が解けたのか、みんなが笑みを浮かべた。
 撫でられたことで少し照れているのか、朔弥は軽く俯いた。握りしめられたその拳の震えは、気がつけば止まっている。左斜め後ろに立つ昴の姿をちらりと見やれば、彼は安心したようで、けれどそれを悟られたくはないのか明後日の方向に視線を向けていた。
「四時間目始めるよ〜」
 あら月影さん、もう大丈夫なの? 星影くん付き添いありがとうね。タイミングが良いのか悪いのか、社会科の授業の資料を抱えて教室に入ってきた担任は、ふたりの姿を視界の端に捕らえるとにっこり笑った。
 自席に戻ろうとする昴の背中に朔弥は、花の蕾が綻んだような優しい微笑みを浮かべ、ありがとうと呟いた。その声はとても小さかったが、さっと耳を紅く染めた彼に届いたことは確かだった。

 朔弥がはっと顔を上げると、そこは、見慣れた幼馴染の部屋だった。かけられている毛布を見て怪訝な顔をした彼女だったが、そこから少し離れた座卓に座っている昴の姿を確認すると納得したように頷いた。彼の髪はなぜか濡れていた。朔弥は彼の前に広げられた勉強道具を目にしてようやく、そういえばふたりで勉強会をするために集まったのだと思い出した。どうして今まで自分がソファの上で寝ていたのかも。
「よく寝てたな」
 また疲れが溜まってるんじゃないか? と読んでいる本に視線を落としたまま昴は言った。いくら彼が成績優秀者だとしても、やはり他の男子と同じで勉強を自主的にやり続けることはできないらしい。朔弥はそう結論づけた。その証拠に、机の上に開かれた算数のドリルには一切手がつけられていない。
 朔弥は軽く伸びをすると、昴が手にする文庫本をひょいっと取り上げる。分厚いそれの表紙には『罪と罰』││小六男子のチョイスにしては意外だった。とはいっても勉強中にそれを読んでいて言い訳ではないので、足下に置いてあった手提げから取り出した自分の荷物と一緒に、朔弥は自分のそばに積み上げた。昴って普段は本読まないよね? という疑問は気にしないでおくことにするらしい。
「毎年のように、終わらないって泣きついてくるのはやめてよね」
 中学にあがったら絶対につきあってあげないんだから、と彼女は宣言した。まあこの絶好宣言も、いつものように、来年の今頃にはすっかり忘れられているのだろうが。それが分かっているからか、目の前に人差し指を突きつけられた昴は余裕の表情で笑っていた。
「どんな夢を見てたんだ?」
 顔を苦しそうに歪めたり笑顔を浮かべたり忙しそうだったな、と彼は尋ねた。軽い調子で言ってはいるものの、その口調は割と本気だった。どうやら本を読みながらでも、彼女のことを気遣ってはいたらしい。
 朔弥は少し頬を染めて口を開いた。おそらくその紅は、寝顔を見られたことと心配されていたことの、両方から来ているのだろう。
「みんなに真実を打ち明けた日の夢だよ」
 あれは三年生の時だっけ? と朔弥は首を傾げる。その無邪気な仕草にドキッとした昴は、心の動揺を悟られないように計算問題に視線を落として関心のないようなフリをしながら、つい先程の出来事を思い出していた。

 話は、今から一時間ほど前に遡る。
 朔弥はそのとき、出かけるために玄関で靴に足を滑り込ませたところだった。出かけるとはいっても、目的地は隣家││星影家宅なのでその距離わずか六メートル、徒歩でも十秒とかからない場所にあるのだが。
 訪問理由はもちろん勉強会。彼女の手提げ鞄の中には勉強道具が詰め込まれているはずだ。ひとりしか生活していない時間帯に家の冷房を使うには気が引ける。そんな暑い場所よりは、いっそ複数人がいる涼しい場所で勉強したほうが余程効率も上がる││という朔弥の提案で、ふたりはこの夏休みに入ってからというもの、ほとんど毎日のようにお互いの家を行き来していた。
「昴と一緒に、彼の家で勉強をしてきます。帰りは六時半になる予定ですが、多少前後するかもしれません。お昼は星影家の台所をお借りして作る予定です」
 それでは行ってきます、と誰もいない廊下を振り返って挨拶を投げかける。外出時のマニュアルをなぞったかのようなその台詞は、幼い頃から教え込まれて彼女の身体に染み付いた、ある意味で癖のようなものだった。
 靴紐を結び終えた朔弥はすくっと立ち上がると、傍らの荷物を手にした。彼女が扉を開けて外にでると、そこに存在したのは直射日光によりじりじりと焼かれたアスファルトとそれによる暑さ、そして湿度のせいでより一層鬱陶しさを増した真夏の蒸し暑い空気のみだった。行き交う人のひとりとしていない、けれど蝉の大合唱のお陰で閑静であるとは到底言えない路地を目にした朔弥は、げんなりとした様子で溜息を吐いた。
 彼女は決心したように深呼吸をすると、全速力で星影家玄関前の日陰まで駆け抜けた。そのタイムおよそ十秒。ふたつの家の門をきちんと施錠した上で通過した割には、慣れているとはいえかなりの結果だ。
 ピンポーンとチャイムを鳴らしたが反応はない。外出しているのか寝ているのか、その後三回試したものの成果が得られなかったため、朔弥は自宅の合鍵よりも先(おそらく幼稚園年長の頃)に渡された隣家の合鍵を取り出した。それは彼女を守るべく大人たちがいろいろと対策を練った際に、その一環として決められたことなのだと思われる。
 朔弥が鍵穴に鍵を差し込もうとしたそのとき、それは訪れた。
 朔弥は最初、この暑い中で外出を試みた物好きな誰かが路地を通っただけだと思った。自分がこうして屋外にいるのだから、他に同じような人がいても別におかしくはない。
 けれどそれとは何かが違う。生まれてからのこの十二年間で培ってきた経験と遠い先祖から受け継いだ血筋による直感が、そう彼女に警告をしていた。背中をぞっと駆け抜けた悪寒に、朔弥はある予感を抱いた。
「——まさか」
 もちろんその予感が良いものであるはずもなく、むしろドロドロとした気持ちの悪い何かが背後で渦巻いているような、そんな気配さえ感じられた。それは徐々に徐々に距離を縮め、彼女を混沌とした漆黒の闇に引きずり込もうと魔の手を伸ばしていた。
 戦わなくちゃ。
 自分がやるべきことは頭の中で分かっているのに、いつもなら無意識でも手を掲げ呪文を唱えることができるのに、朔弥はドアと向き合ったまま動くことができなかった。もしかすると、結界を張ってあるはずの自宅周辺にそれが現れたことへの不安と、空気の綻びを最近見かけていなかったことで生まれた油断が彼女をそうさせたのかもしれない。
 このままだと喰われる。金縛りにでもあったかのように立ち尽くしながら、彼女はそう確信した。自由の利かない身体を無理矢理に動かそうと力を込めるが、それは朔弥にはどうにもできなかった。
 けれどそのとき、死刑を待つ囚人のように呆然とただ立ち竦む彼女のもとに、突如現れた救世主がいた。その登場はまるでヒーローのようなタイミングだと朔弥は思った。相変わらず振り向くことはできないが、実力行使でそれに立ち向かおうとしているその人物が誰なのかは、鍛えられてきた勘によって当てる自信があった。明らかに拳がそれの身体に当たったであろう鈍い音が、彼女の背後で聞こえる。得体の知れないそれに立ち向かって素手で殴ろうなどと考えるような馬鹿は、朔弥の知る限りひとりしかいない。
「朔弥っ」
 昴が自分の名前を叫んだ瞬間、朔弥は金縛りが解けたことに気がついた。今までどこにいたんだと問い詰めたい心を抑え、振り返った彼女は右手を掲げると、一切の淀みなく呪文を唱えて見せた。透徹した空気が、彼女の手のひらから少しずつ広がっていく。
「——私を簡単に殺せると思わない事ね」
 朔弥は、先程いとも簡単に動きを封じられた自らのことを棚に上げ、悶え苦しむそれを見て冷酷に微笑んだ。彼女のその眼差しは氷点を大幅に下回る程冷たく、けれどこの世界を達観しているような雰囲気を纏っていた。
 鹿の体に牛の尾と馬の蹄、頭上に生えた一角。これだけを聞いたならば、五色に輝く美しき麒麟だと思うかもしれない。けれど今ふたりの前で足掻いているそれには加えて雄獅子の頭と日本犬の脚がついており、各パーツの組み合わせはとてもいびつだ。今現在人間の言語として存在する言葉では表しようがないほど、それの姿は奇異で奇怪で異質で不気味で、吐き気がするほど気持ち悪かった。
 朔弥は思わず目を背けそうになる気持ちを振り切り、その細い首にかけられた仄かに輝くペンダントを握りしめ、最後のとどめだというように呪文を唱えた。それと同時に、ペンダントからは眩い、けれどやわらかく清らかな光が発された。
 攻撃を受けたそれは光の檻の中で長いこともがいていたが、やがて力尽きると、霧のように無惨に散っていった。
 しばらくの間放心状態にあった朔弥は、はっと気がついて口を開いた。けれどもその艶やかな唇が音を紡ぎ出すよりも先に、彼女の脚がその体を支える力を失い、朔弥は星影家玄関前にへなへなと崩れ落ちた。
「おい、朔弥」
 同じく放心状態を持続していた昴が慌てて側に駆け寄り、彼女の華奢な身体を抱きかかえて家の中に入った。二階にある自分の部屋のソファに朔弥を座らせると、彼は一安心というように安堵の息を漏らした。人前でそんな素振りは一切見せないが、少なくとも朔弥のことに関しての昴の心配度はかなり高く、周りから過保護だと言われても妥当だと頷けるほどなのだ。
 久しぶりにグロテスクなものを目にしたからか、朔弥の目は虚ろで、先程言いかけた言葉も口にする気にならないらしい。三秒と経たないうちに眠りに落ちてしまった。彼女がこんな状態の時は、とりあえずそっとしておくことが一番。それが、幾度となく繰り返す戦いの中で昴がたどり着いた教訓だ。
 彼は、ふと滴り落ちた水分にまだ髪が濡れたままだと気がついたが、わざわざ乾かすのは面倒臭くまた時間も惜しいため、気にしていないフリをすることにしたらしい。彼は彼女が冷房のきいた室内で寝冷えしないように押入からわざわざ持ってきた毛布を掛け、夏休みの宿題と筆記用具を机の上に広げて、けれどもそれに手をつけることはせずになぜか普段は興味もないはずの読書を始める。昴がソファから少し距離を取ったのは、彼女の規則的な寝息とその無防備な横顔から逃れるためなのかもしれなかった。

 あれは我なりに正確な判断だったと昴が先程の行動を振り返っていると、いきなり頭に手刀を叩き込まれた。突然何をするんだと彼が朔弥に非難の目を向けると、いつの間にか昴の背後に腰掛けていた彼女は、つんと澄まして明後日の方向に顔を背けてしまった。
「勉強に集中しなさい」
 これではまるで第二の母親だ、と昴は思わず肩をすくめた。しかし逆らうと身の安全が危ぶまれることは、今までの経験上間違いない。彼は大人しく鉛筆を動かすことにした。
 彼女は容姿端麗で清楚でおしとやかで、社交的で家庭的で成績優秀、所作も美しく礼儀も良い。令嬢という言葉がぴったりで全国の女性の模範にもなれそうな、最近の小学生六年生に比べると大人びすぎている少女だ。それはおそらく、生まれもった能力のおかげで幼い頃からメディアに取り上げられ人目に晒されてきた事で、嫌でも身についたものなのだろう。
 けれどそれらはあくまでも表向き、人前での姿でしかない。地の朔弥は多くの場合、先に述べたものと正反対な行動をとる。さすがに成績や容姿までは変わらないが、先程のように容赦なく手を出すし、悪戯を働くことも嫌味を言うことも無邪気に笑い声をあげることもある。戦う際には、躍動的なアクションをこなしてみせるときだってある。こちらのほうが地であるというのは明らかだった。
 だが彼の知る限り、今までに彼女が地を見せた相手は、自分││星影昴ただ一人。朔弥は学校で親しくしている友達や親戚、そして両親にすら、張り付けた微笑みで表向きの自分を演じているのだ。
 朔弥曰く「月紗の子孫として能力をもち生まれた以上、早死にすることは間違いない。下手に親しくしては、自分が死んだときに相手へのダメージが大きくなってしまう。これはできるだけ傷を残さないために、最良の手段を選んだ結果」ということらしい。だからといって両親の前でも芝居をするという選択は如何なものかとつっこみを入れようとしたのだが、きっと朔弥は強がっていて、けれどそれをはっきりさせることを彼女の誇りが許さなかったのだ。そのとき彼女はとても寂しそうな目をしていてとても本音を言える状況ではなかったと、昴はそう記憶している。
 ごめんね。あの日、朔弥はそう呟いて、こちらに背を向けたまま涙声で告げた。「昴を勝手に唯一の逃げ場にしたこと、悪いとは思ってる。でも私がここに生きていたということを、昴だけには覚えていてほしいの」と。伏し目がちに言ったあのとき、彼女の透明な眼差しは儚げに揺れ、頬を一筋の煌めきが静かにつたっていた。まだ九歳の少女に、心を殺したも同然のその決心は重すぎた。
 考えを巡らせる昴の手はいつの間にか止まっていた。けれど朔弥は、そのことについて何も言わない。彼女は怪しむような(というかむしろ憐れむような)目で彼を見ていた。
「どうかしたの?」
「あ、いや」
 俺はそんなに変な顔をしていたのかと疑問に思いながらも、昔を思い出しただけだと昴は答えた。昔も何も生まれてまだ十二年しか経ってないでしょ、という朔弥からの予想通りの反応をはいはいと軽く受け流し、彼は再び鉛筆に手を伸ばす。けれどその動作は、あれだけ勉強しろとうるさく言っていたはずの朔弥に、腕を掴むことで止められてしまった。
「さっきはどうして救援が遅れたの?」
「どうして、って」
 客人が来ると分かっているのにどうして外出していたわけ? と朔弥が訊ねた。不機嫌さが声に滲み出ている。それを受けた昴は、単にシャワーを浴びていただけだと心の中で弁解する。朔弥の危険に気づいて二階の窓から飛び降り加勢したのだが、と。
 適当にあしらおうとした昴は、振り返って思わず息を呑んだ。なぜなら、彼女のまっすぐな瞳に至近距離で見つめられていたから。黒く澄んだその瞳に吸い込まれるような錯覚に陥りながらも、視界の端でちらつく艶やかな唇の誘惑を必死で振り切り、昴は視線を無理矢理ずらすことで何とか平常心を取り戻した。軽く身を引いて朔弥から逃れた彼は、ほっと息をついた。
 一方朔弥は昴の心情などお構いなしで、はぐらかされたことについて拗ねていた。まったく、無自覚とは恐ろしい。どうやらこの少女は、目の前の少年が思春期に突入しているということには全く気づいていないようだ。おそらくは、この年頃の男女がふたりきりであることの危険性も知らないのだろう。
 昴は深く溜息を吐くと、答える必要性が全くない質問と無垢で艶やかな誘惑から逃れるため、そして朔弥のご機嫌を取るために、彼女の目を覗き込んで微笑んだ。そうすると彼女が打ち勝てないことを承知の上でその笑顔を浮かべるのだから、全くもって質が悪い。
「あの、え、昴……」
「もうすぐ昼だし、何か食べたい」
 できれば朔弥の作ったご飯が、と優しく囁く彼の様は、傍から見るとはっきり言って色仕掛けでしかない。至近距離でそうされた朔弥は、つい十秒前まではご機嫌斜めだったというのに、あっさりと白旗を掲げた。顔を真っ赤にして立ち上がると、台所に向かってぱたぱたと軽やかに駆けていった。
 部屋に残された昴は、自分も同じようなことを俺にしている自覚をもってくれ、と諦めたように、そして懇願するように呟いた。