第3章 修学旅行
まだ少し夏の暑さが残る九月のある日。月姫小の六年生たちは、修学旅行の目的地に向かって、静かにバスに揺られていた。
滅多にない移動教室で、どうしてこのような沈黙が訪れているのか││それは疲れ果てたからだ。はじめはみんなのテンションも高く、カラオケ大会にクイズ大会など大盛り上がりであった。しかしレクのネタも尽きてしまい、端的に言えば飽きたのだ。さすがに話題も尽きたのか、雑談をする声すら聞こえない。けれどそんな重い空気も、小学生の手にかかればあっという間に晴れてしまう。
「ねえ見て、あそこ!」
長いトンネルを抜けたとき、誰かが突然そう言った。何事かとみんなが指さされたほうに視線を移せば、そこには彼らの見たことがない景色が広がっていた。
青々と茂る緑の森。
真っ白な砂浜。
透き通る綺麗な海。
実際にはゴミが落ちているなど、そこまで美しい訳ではないのだが、見慣れない彼らの目にはそう映ったらしい。バスの車窓から見える景色に、わあっと歓声が上がる。すごいを連発しながら隣の席の友人と意味もなく手を取り合う少女や、デジタルカメラを取り出してピントがぼやけたままに連写する少年。このお祭り騒ぎの中でただひとり寝ている担任を除いて、乗客の誰もが興奮していた。
「今からあそこに行くんだよ!」
楽しみだね、と朔弥の隣に座る愛莉が嬉しそうに話しかける。けれどここまでの山道で車酔いしてしまった朔弥は、それに対して力なく笑い返すことしかできなかった。
カメラで外の景色を撮影し始めた愛莉を見て朔弥は、はあっと大きく息を吐いた。彼女にとって貸し切りのバスに五時間以上乗り続けて旅行をするというのは初めてで、とても疲労が溜まっているようだ。
「大丈夫か?」
通路を挟んで朔弥の隣に座っている昴が声をかけた。本人は声色にも気を使ってさりげなさを装っているが、彼の顔には心配だとはっきり書いてある。ちなみに座席はすべて公正なるくじで決めているのだが、脅迫するなど何かしらの手を使って昴がこの席を勝ち取ったということは間違いないようだった。
「いつも通りだよ」
「嘘つけ、顔色悪いぞ」
「目が腐ってるんじゃない」
「お前な、」
朔弥は昴に向かって冷たく言った。けれどそれはいつもの強がりであり、彼女の体調が優れていないということは、誰の目にも明らかだった。││未だ興奮状態の続く車内で、果たして二人のやりとりを見ている物好きがいるのかは謎だったが。
昴は朔弥の冷たい対応が本心の裏返しだと分かっているので、気にすることなくにっこり笑った。俺らにとっては初めての宿泊学習だから仕方ないさ、と。
普段であればここで黄色い悲鳴が上がりそうなものだが、残念ながら少女たちは珍しい景色に興奮中で、彼女たちにとってはレアである昴の微笑みを見逃してしまったようだった。世界中で唯一この笑顔を見慣れているはずの朔弥は、それでも思わず見惚れてしまったらしい。彼女はすぐにはっとして顔を背けたが、その頬は紅く染まっている。昴はそんな朔弥の姿を見て、満足そうに頷いた。
「まあ、無理はするなよ」
「だから平気だってば」
「大丈夫じゃないから言ってるんだろ」
月影に接するときの星影は、過保護でそして確信犯だ。いつまでも終わらない応酬を聞きながら、彼の隣に座る堀内はそう確信したようだった。詳しい事情を知らない者にまでそう認識されるということは、相当過度なのではないだろうか。
窓ガラス越しに見える遠くの空は、青と鈍色の入り交じった、微妙な色をしていた。
修学旅行一日目は、宿に着き部屋に荷物を運び、豪華な夕食をとり源泉掛け流しの露天風呂に浸かり……とあっという間に過ぎていった。長旅の疲れを癒すため、あとはもう寝るだけとなっている。
翌日の準備をすませた朔弥は、敷かれた布団に倒れ込み、瞼を閉じた。力を使った直後で体調が崩れていたり襲われて怪我をしていたりと、彼女は過去二回の宿泊行事に参加できていない。初めての旅行で緊張していたこともあり、人一倍疲れているようだ。
消灯時間となりそのまま眠りに就こうとした朔弥だったが、一度は消された部屋の明かりが再び灯された。暗闇から一転、蛍光灯の眩しい光に朔弥は目を細めた。
「まさか、寝ようと思ってた?」
「違うの?」
体を起こす少女たちを見て怪訝そうな顔をする朔弥に、隣の布団の小百合が目を丸くした。信じられない、という表情をしている。
「みんなで雑談するんだよ」
だってまだ九時半だし。消灯時間は過ぎてるから先生にばれないようにだけどね。男女関係なく、どこの部屋もそうだと思うよ。
あなたの辞書に「夜更かし」という項目はないのですかと、そうつっこみたくなる気持ちを抑えて、嘉代が朔弥に説明した。
まあ、朔弥にその手の概念がなくても、おかしくはない。彼女はいつもこの時間には眠りに就いているし、お泊まり会なるものに参加したこともないのだ。
麻里が蛍光灯の明かりを調節したことで、部屋の中は橙色の光で溢れた。彼女がもぞもぞと布団に潜り込むと、花梨と小百合が顔を寄せる。嘉代が朔弥に手招きをして、近くにくるよう促した。
「ここはやっぱり怪談かな?」
ほとんど空気の音しか聞こえないような、音量を限界まで下げた声で嘉代が言った。同じく抑えてはいるがそれより少しだけ大きい声で、やだよぉ、と花梨が応える。恋話にしようと麻里が提案しなければ、瞳を潤ませた彼女はそのまま泣いてしまいそうだった。それを見て、この子も幽霊や妖怪が苦手なんだな、と朔弥は密かに親近感を抱いた。普段から気持ち悪い未確認生物を見てはいるが、だからといってそれを平気で直視できるわけではない。
コイバナとは何のことを指すのか、朔弥はよく知らなかったが、他の四人の話を聞くうちに何となく理解できたらしい。おそらく恋愛についてはものすごく疎い彼女だが、それでも、好きな人について語る少女たちはとても幸せそうだなあと思った。
「で、朔弥は?」
気がつけば四人とも自分の話を終えて、朔弥のほうを興味津々に見ている。話は自分に振られたけれど何を話せばいいのかが分からず、朔弥はきょとんとしてしまった。そんな彼女に、四人はにっこり(にやり、という形容のほうが正しいかもしれない)と笑った。
「好きな人の話に決まってるじゃん」
「いるでしょ、朔弥」
「え、」
「隠すとか無しだよ?」
「まあ大体分かるけどね」
ほら言って言ってと、みんなが朔弥を問い詰める。自分にそんな人はいないと、首を左右に激しく振って彼女は訴えたが、四人には通用しなかった。その少し意地悪な笑みは、悪戯を思いついたときの昴の表情に似ていると朔弥は思った。
自分が好きな人とは誰だろうと、朔弥は考えを巡らせる。四人の話を聞いているとおそらく、クラスの友達が好きだとか、ご近所さんたちが好きだとか、そういう好きではないのだろう。恋愛対象として認識できる異性のことを指すのだとは思うが……あいにく、該当者は見あたらなかった。
そのことを伝えると、みんなは驚いた顔をした。好きな人がいないことがそんなに意外だったのかと朔弥が首を傾げると、小百合が衝撃のひとことを発した。
「朔弥は星影とつき合ってるんでしょ?」
あまりにも飛躍しすぎている話に、朔弥は思わず、ふぇ? と間抜けな声を出してしまった。小学生男女にしてはかなり仲がよく、まわりから見れば立派に役割分担できているのだが、まさか自分たちがそんな風に見られているとは夢にも思っていなかったらしい。
「違うよっ」
必然的に一緒にいるけどただの幼馴染だしつき合ってなんかないよ、と朔弥は全力で否定した。もしもこれが世間一般の極普通の女子生徒なら、その慌てっぷりが怪しいんだよ、と言及されたのだろう。しかし普段のまっすぐな性格のお陰で、彼女の言葉にはなぜか説得力があった。
てっきり噂は本当だと思っていた四人は朔弥をからかうつもりだったのだが、それが嘘であることにがっかりしたらしい。仕方がないので、少し方向性を変えて質問を始めた。
「じゃあ、星影ってどうだと思う?」
つき合ってるつき合ってない関係無しに、正直なところ自分はどう思ってるの? と聞かれた朔弥は、五秒間ほど真剣に悩んだ末に答えた。それは││もちろん声を抑えているということもあるのだが││普段の朔弥からは考えられないほどの弱々しい声で早口で、しかも内容が要約されていなかった。
「美少年だし頼りがいはあると思うし、過保護で心配性なところはあるけど優しいし、いつも側にいてくれるけど、でもそれは月紗様からの手紙に支え合えって書いてあったからだし、昴にとっての私は枷でしかなくて、だって昴から自由を奪ったのは私だし、その所為で昴は女の子から告白されてもそれに応えてあげられないし、普通の小学生みたいに生活できないし、死ぬ確率も高いし……」
「朔弥、ストップ」
どんどん悪い方向に思考が進んでいく朔弥を、慌てて麻里が止めた。こんなによく喋る朔弥は初めて見たと思うと同時に、普段こんなことを考えながら星影昴に接しているのかという驚きがあった。自分と同年代の少女だとは思えなかった。これ以上のことを聞いてはいけないような気もした。
けれど彼女はまだ、本来の質問には答えていない。今の話からすれば大体の予測を立てられるが、朔弥の考えていることが予想からかなり外れている可能性は否めない。これはもうずばり聞くしかないと、花梨は思った。
「それで結局、朔弥は星影が好きなの?」
単刀直入といった感じで尋ねられて、朔弥は一瞬言葉に詰まってしまった。その瞳が少し潤んだ気がして、悪いことを聞いてしまったかと少女たちは焦ったが、朔弥は泣かなかった。こみ上げてくる涙を必死で堪えて答えた。それを聞いたとき、四人は、彼女が初めて心を開いてくれたような気がした。
「……私は、人を愛してはいけないから」
修学旅行二日目の朝がやってきた。この日は山に登ることになっていた。
朔弥は朝、登山口付近である違和感を抱いた。しかしそれはあまりに微かな気配で、彼女はそれが気のせいであることを祈りながら足を進めた。昴も一瞬朔弥の表情が強ばったと気づいたが、彼女がそれ以上何も言わないのを見て、自分が少し過敏になっているだけかと思いあまり気にはしなかった。
思えば、そこで歩みを止めておけばよかったのだ。あの違和感を問題視しておけば、こんなことにはならなかったのだろう。
「ここ、どこ?」
「つかれたー」
「まだ着かないわけ?」
「帰りたい……」
六年二組の生徒三十人が、この分岐ひとつない一本道で何をどうしてこうなったのか、帰り道で迷い、担任ともはぐれてしまったのだ。打開策を考えるわけでもなく森の中を歩き回っているため、はじめに迷子だと気づいた時よりも余計に道を逸れているのではないだろうか。
疲れたと文句を言い始めたクラスメイトたちを見て、朔弥は、自分には魔法を使えることを思い出した。なぜそれを今の今まで忘れていたのかという疑問はひとまず気にしないことにして、彼女は呪文を唱えた。その声にみんなの視線が一斉に集まる。
何してるの? と不思議そうな顔をした友人たちに、朔弥は口元に立てた人差し指をあてることで静かにするよう頼んだ。
そのとき彼女の手のひらから、きらきらと光るラメのようなものが溢れ出てきた。太陽を直視しているかのように眩しいそれは、だんだんと柔らかな光となり、徐々に何かの形となった。よく見ればそれは蝶で、光のラメは鱗粉なのだろうと、みんなは納得した。
「登山道まで案内して」
朔弥がそう話しかけると、蝶は彼女の手のひらから木々の間に飛び立った。朔弥はそれを追って駆け出した。みんなはぼーっとそれを眺めていたが、置いていくぞと言って走り出した昴に、慌ててついて行こうとした。
あれは紛失物や道を探すのに便利な魔法だと、昴は説明した。彼はみんなが息切れを起こしている中で、ただ一人余裕の表情をしていた。さすが騎士だと級友たちは思った。
突然、朔弥が足を止めた。それに伴って急停止した彼女のクラスメイトたちは、勢い余ってつんのめった。
「——下がって」
誰かが声を上げる前に、朔弥が珍しく鋭い声で命じた。昴を除く二十八人全員が後退したことを確認すると、朔弥は手のひらを掲げた。昴は彼女の視線の先に、狸と針鼠と雄鹿とを足したような地球外生命体を見つけた。生徒たちがいる位置からは見えないようで、彼らは何が起こっているのかと息を詰めてこちらを見つめている。
半ば諦めたように溜め息を吐くと、彼は少女の盾となるかのように、朔弥と謎の獣との間に立った。朔弥は、彼に文句を言いたい気持ちを抑えて呪文を唱えた。
彼女の指先からは、穢れの一切ない清らかな光と、どこか甘く優しい雰囲気を纏った空気が流れ出た。ちなみに彼女が魔法で放つ光は、月光だと言われている。月の魔物が月光に屈するのかというのは疑問ではあるが、それらをもろに浴びた獣は、聞くに堪えない雄叫びをあげてその場に崩れ落ちた。
地球外生命体は霧となった。それは月からの刺客が最期を迎えるという合図だ。あとは無惨に散っていくだけなので、朔弥は安心してクラスメイトたちを振り返った。驚きと恐怖で声を出せなくなってしまった彼らに、彼女はもう大丈夫、と話しかけようとした。
しかし。
突然、朔弥が草むらの中に倒れ込んだ。不穏な気配を敏感に感じ取った昴が、反射的に彼女をみんなのほうへ突き飛ばしたのだ。次の瞬間、鋭く眩い閃光があたりを駆け抜け、その場にいた全員が咄嗟に目を覆った。
微かに聞こえた呻き声に朔弥がはっと顔を上げると、そこにはうずくまる昴がいた。慌てて彼に駆け寄ってみれば、右腕を押さえる左手の指の間から、ぽたぽたと血が滴っていた。朔弥は一瞬、何が起きているのか分からなかった。
「昴、」
「……っやられた」
痛みからか彼はその端正な顔を歪め、悔しそうに呟いた。昴が途切れ途切れに語った話によると、最後の力を振り絞った消滅寸前の獣が攻撃を放ったのだという。そして彼は、自らを犠牲にして朔弥を庇ったのだ。
嫌がる昴の左手をそっと解き、朔弥は彼の腕の傷を確認した。それは思ったよりも浅い擦り傷だったが、まだ流血は続いている。朔弥は真新しい綺麗なガーゼハンカチと消毒液を取り出し、有無を言わさず応急処置として止血をおこなった。あてがわれた真っ白な布は、あっという間に赤く染まった。
未だかつて目にしたことの無かった生物やふたりの戦う姿によって、みんなは放心状態となっていた。けれど逃げ腰気味の少年と彼を手当する少女を遠巻きに見て、あぁ彼らも小学生なんだなあと、ぼんやり思った。
「朔弥、怪我は」
「おかげさまで無傷よ」
「よかった……っ」
やっと朔弥から解放された昴は、いつもの調子に戻ってきたようで、安堵の溜め息を吐いた。この数分の間にだいぶ落ち着いたらしい。みんなもその様子を見て安心し、男子生徒の数人は彼に駆け寄ろうとした。
しかしそのとき。
「馬鹿っ」
いきなり朔弥が怒鳴った。びくっとして、みんなは一瞬動きを止めてしまった。彼女はそんな周りに気を取られることなく、昴に向かって言葉をつづけた。
「昴はいつもそうやって、私を庇って一人犠牲になる。どうして自分だけが危険な場所に立とうとするの? ねえ、なんで?」
朔弥は泣いていた。泣きじゃくりながらも、目の前の昴を睨んでいた。彼女の流す涙は、まるで小さな水晶玉のように美しかった。
朔弥が怒鳴るところも泣くところも、みんなは初めて見たと思った。彼女が心を殺していたことを改めて感じると同時に、生まれの所為でどれだけ過酷な人生を強いられているのだろうと思った。
昴はしばらく呆気にとられていたが、はっとして朔弥のほうに手を伸ばした。彼女の華奢な体を抱き寄せると、幼い子をなだめるように、そっとその背中をさする。優しい温もりに少し心を許したのか、朔弥は彼の胸に顔をうずめて、甘えるような声で言った。
「昴はいつでも私を守ってくれるけど、でも私だって昴を守りたいんだよ。全力で庇ってくれるのはもちろん嬉しいけど、昴が傷つく姿は見たくないの」
だって私たち運命共同体でしょう、と呟く朔弥に昴は、ごめん、と擦れた声で謝った。みんなのいる場所から彼の表情はよく見えなかったが、少し紅潮しているようにも、目を潤ませているようにも思える。彼らはやっぱり大人びていると、ふたりの姿を見守りながらみんなは確信した。
しばらくして泣き止んだ朔弥は、赤い目をごまかすように擦りながら、みんなのほうに向き直った。泣き顔や昴とのやり取りを見られたことに恥じらっているのか、照れたように微笑んでいる。決まり悪そうに立ち上がった昴の洋服は涙に濡れて、胸元だけ色が変わっていた。心配かけてごめんね、と呟いて彼女は後方を指差した。
「帰ろうか」
蝶を呼び出すまでもなく、登山道はすぐそこに見えていた。生徒たちは我先にと駆け出していく。ほら、と差し出された手を躊躇いがちに握った朔弥は、幼馴染に引っ張られるようにしてみんなの後を追いかけた。
彼らは登山口を出た後、宿への帰り道を探して再び迷子になり、他のクラスよりも二時間半遅れで宿に戻った。彼らが疲れを休める間もなく事情を事細かに説明させられ、心配してあちこちを駆け回った担任をはじめとする、教師たちからのお叱りを受けたことは明らかだった。