終章 桜咲く
どこまでも遠く澄んだ青空の下、月姫中学校の入学式が行われる日がやってきた。第六十七回入学式、と大きく印刷された看板が正門前にたてかけてある。
公立中学校にしては珍しいセーラー服のスカートを華麗に翻してみせる少女や、学ランのまだ慣れない詰め襟を気にする少年たち。真新しい制服を纏った彼らは、これから始まる新しい生活に胸を躍らせているはずだ。
はっきりそうだと断言できない理由は、校門の手前の道にいる。他の通行者に迷惑をかけないよう配慮しながら││といっても不審者でもない限り学校関係者以外が通ることはまずないのだが││そこに広がって立っている新一年生、つい先月まで朔弥と同じクラスだった子供たちだ。
せっかくの晴れの日だというのに、月姫中に進学した者のうち、この場にいないふたりを除いた二十五人は浮かない顔をしている。道を何度も振り返る者、校舎の外壁にかけられた時計を何度も確認する者、今にも泣きそうな顔で俯く者……誰も何も言わない。はじめに重苦しい沈黙を破ったのは、以前と変わらぬお下げ髪の彩菜だった。
「来ないね」
「……うん」
消え入りそうな声で呟かれた言葉に、みんなが頷いた。誰のことかは言わなくても分かっている。今彼らの脳裏に浮かんでいるのはおそらく、この場にいないふたり││過酷な運命を背負った少女の綻んだ花のような笑顔と、彼女を支える少年が極希に見せる少し照れたような表情なのだろう。
今日は彼女の運命が決まる日なのだ。卒業式の日の別れ際に、朔弥は言った。もしも私の生死を委ねたなら、神は迷わず死を選ぶだろうと。それは「予言」なのだと。
奇跡を起こしたいと彼女は言い、実際に人類を救った。けれど、奇跡とはいつまで続くのだろう。九割九分九厘九毛九糸で当たる予言が外れたというのは、その他の予言は二度と外れない、ということではないだろうか。
「……予言、当たるのかな」
誰かがぽつりと漏らした呟きで、みんなの空気がより一層暗くなる。まるで葬儀にでも向かうかのようなその雰囲気に、事情を知らない彼らの親や他の新入生たちは、訝しむような視線を投げかけながら遠ざかっていった。その場を動かなかったのは、朔弥と昴の両親たち四人だけだった。
「みなさん、各教室に移動して下さい」
もうすぐ式が始まるため、案内係だと思われる女子生徒が新入生の誘導を始める。みんなは思わず顔を見合わせた。
朔弥の生死を確認するため、昨夜から昴が病院に泊まり込んでいる。肉親ではなく彼がそうするのはもちろん、月影月紗からの手紙に従っているためだ。目覚めた場合は即退院できるよう病院と交渉してあるため、昴が登校したなら吉、来なければ凶と判断できる。
しかし、集合時間二十分前の今。可憐な姫君を連れた寡黙な騎士は、未だに現れない。
「行こうか」
苦々しげに誰かが言った。やはり予言通りだったかと、悔しそうに眉を顰める者もいれば、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えている者もいる。とはいえ入学式に出席しなければならないため、いつまでも留まる訳にはいかない。保護者にも迷惑をかけてしまうので、彼らは仕方なく校舎に足を向けた。
今ここで中学校の敷地に踏み入れてしまえば、朔弥との再会は二度と叶わぬ願いとなるだろう。けれど、流れゆく時を止めることはできない。この世界に生きている限り、人は常に前に進み続けなければならないのだ。彼女の思いやその存在を否定することになる行動だと分かっていても、彼らは歩き続けた。
けれど、彼らが入学式仕様に飾られた校門を無言で俯いたままくぐろうとした、そのとき。
春一番のように強く激しい、それでいてとても清々しく柔らかい風が、突如として彼らの間を吹き抜けた。反射的に桜並木を振り返った彼らは、そこに広がる景色に目を奪われた。淡い薄桜色の吹雪が辺りを舞い狂うその様は、水彩絵の具で塗りつぶしたかのような透き通った空色に美しく映えていた。
そして次の瞬間、彼らは目を見張った。
桜色の御簾の向こう側に、花びらの散る並木を全速力で駆け抜けるひとつの陰があったからだ。その陰はこちらへと近づいて来ている。だんだんと鮮明になる輪郭で、それは華奢な少女を抱えた少年だと分かった。遠目からでもはっきりと見えるその深緑色が特徴的な制服からして、同じ中学校の生徒だ。
「——あれは」
誰かが思わず漏らした呟きに、みんなはただただ頷く。彼らが誰なのかが分かっていても、なぜかその場から動くことができない。呟いた本人さえも、続ける言葉を探り当てることはできなかった。
そうしているうちにも距離はどんどんと縮められ、残りはわずか百メートル程となっていた。そのとき少女がふと何かを囁いたようで少年が立ち止まり、次の瞬間には、陰はふたつになっていた。どうやら降ろしてと頼まれたらしい。
私は、自分の足で歩きたいの。
軽やかに疾走してくる少女とそれを慌てて追う少年の姿を見てみんなは、いつだったか彼女が言っていた言葉を思い出す。目の前に敷かれたレールの上をただひたすらに走り続ける人生なんてごめんだと、そう言った彼女の瞳は強い光を宿していたと彼らは思った。
風は止んだ。空は青い。
息を切らして少女は立ち止まった。みんなとの距離わずか五メートル。彼女のすぐ斜め後ろに、程なくして少年がたどり着いた。
あまりの驚きと喜びで何も言えなくなってしまった友人と保護者たちを見て、少年はくすりと笑みを零した。つい先程まで自分と同年代の女子をお姫様抱っこしたまま街を駆けていたこの騎士は、その事実が嘘であるかのように涼しげな様子をしていた。呼吸が荒くなることもないようで、さすが出生直後から鍛えられているだけあると、みんなは妙に感心した。
一方、同じく幼い頃から鍛えられているはずの姫君はといえば、上がった息を整えるために深呼吸を繰り返していた。この落差は何だとみんなは頭に疑問符を浮かべたが、まあ生まれつきの体質や運動神経や男女の体格差などによるものなのだろう。
ようやく息を落ち着かせたらしい長い黒髪を束ねた美少女は、未だに硬直したままのみんなのほうに向き直った。その漆黒の瞳の奥に、悲しみや迷いは一切ない。以前と全く変わらぬ淡い微笑みを浮かべた彼女は、玉を転がすような声で言葉を紡いだ。
「ただいま」
朔弥の胸元には、三日月形のアクアマリンが月光のように淡く優しく輝いていた。
(完)