第5章 運命の歯車


 朔弥は、木漏れ日で目を覚ました。隣に敷かれていたはずの布団は片づけられており、広い部屋には彼女しかいなかった。枕元の目覚まし時計は、すでに七時を指している。
 朔弥は、あくびと同時にひとつくしゃみをした。千数百年前の建物から改修されているとはいえ木造の日本家屋は風通しがいいし、そもそも今は三月なのだ。もう春だという人もいるがそれは昔の暦であり、気候的にいえば現代の三月は冬である。吹き抜ける風の寒さに体が震えた。
 布団を畳んで押入にしまい、朔弥は部屋をあとにした。廊下は予想以上に冷たく、爪先立ちで小走りに駆ける。角を曲がったところで、彼女を起こしに行こうとしていたらしい昴とはち合わせた。
「珍しく寝坊だな」
 すっきりとした顔の彼はもう着替えをすませており、履いている靴下のお陰で、このひんやりとした床の上も平然と歩いている。その余裕な表情に、朔弥は軽く殺意を覚えた。
 その鋭い視線で朔弥の意図するところを察したのか、昴は苦笑すると彼女に背中を向けてしゃがんだ。朔弥は、まるで幼い子供のように微笑み彼の背中に掴まる。そのまま昴は立ち上がり、少女をおんぶしたまま台所まで向かった。
 朝食の後、ふたりはしばらく雑談をしていたが、この先のことには触れなかった。直前まで触れるべきではないと思っていた。
 と、音がしたと言って昴が郵便受けを確認しに行った。戻ってきた彼は、山吹色の塊を手にしていた。近くで見るとそれは大量のミサンガで、どうやら事情を知る学校関係者や地域の人たちが作ってくれたらしい。
「私は一体、何本つけたらいいのよ?」
 六十六本のミサンガを見て、朔弥は呆れたように呟いた。彼女は仕方なさそうに、それらを組み合わせて髪飾りにした。昨日母がくれた物だけは、昴に頼んで右足首に結んで貰った。
「即効性があるとは思えないけど、捨てるわけにもいかないしね」
 とは言うものの、彼女は嬉しそうだった。
 時計を確認したふたりは、そろそろ時間だということで部屋を出た。玄関まで来て靴を履いたところで、朔弥はふと思い出したように振り返った。
「昴にして欲しいことがあるんだった」
 私以外の人間が側にいると何があるか分からないから、昴は三件隣のコンビニで待機していてね。朔弥はそう言った。パートのおばさんたちに事情を説明したところ、快く許可をしてくれたらしい。
「いい? 絶対に来ちゃ駄目よ」
 念を押すようにそう言うと、朔弥は細かい指示を出し始めた。
 強力な魔法が放たれてから一分以内に私が姿を見せなかったら、全速力でここまで駆けてきて。そこでもし私が倒れていたら、すぐに電話をかけて救急車と親を呼んで。そうそう、救急車は、月影ですって言うだけで来てくれるようになっているわ。
 そんな彼女に昴は、なあ、と躊躇いがちに話しかけた。彼は、今の状況でこの話を切り出すのは間違っているとは思いながらも、今を逃せば二度と言えない気がしたのだった。
「俺の夢は一生朔弥の隣にいることだって教えたの、覚えてるか」
 唐突な質問に彼女は一瞬首を傾げたが、今年の夏の話だと理解すると大きく頷いた。今になってこの話題を持ち出されるとは思っていなかったが、その時のことを思い出した朔弥は淡く頬を染めた。すると昴は、まっすぐな眼差しを朔弥から逸らさずに言った。
「あれ、本当だからな」
 そもそもあんなことを冗談で言えるわけないだろう、と。どうやら彼は、彼女が半信半疑でいることに気づいていたらしい。さすが幼馴染と感心する朔弥に、前から言おうと思ってたんだけど、と昴は言葉を続けた。
 けれど昴はすぐには話し始めず、彼にしては珍しく言い淀んだ。どうしたの? と朔弥がその漆黒の瞳を覗き込むと、彼はさっと頬を紅く染めた。それを見た彼女は、なんだかいつもと立ち位置が逆だなあと思った。
 この反応を見れば、彼が何を言おうとしているのか分かりそうなものだが、この手の話にかなり疎い朔弥は、この時点で勘づきさえしていないようだった。
 昴は大きく深呼吸をすると、朔弥の澄んだ瞳を見つめて、決心したように口を開いた。
「――朔弥、好きだよ」
 それを聞いた瞬間、朔弥の瞳からはなぜか、宝石のように美しい雫が零れた。それは彼女の白く滑らかな肌を伝い、頬にきらめく筋を残した。慌てたのは、昴だけではなかった。
 どうして私は泣いているの? と朔弥は答えを求めるように昴を見上げた。しかし本人に分からないことが彼に分かるはずもない。けれど、何かをしてやりたいと思った昴は、彼女の頭にそっと手を伸ばして優しく撫でた。
 すると朔弥は、ああそうか、と呟いた。納得したらしいその声には、心なしか寂しさが含まれているように感じられた。彼女は困惑した表情の昴を見上げて言った。
「悲しいのはきっと、私も昴のことが好きなのに、そう言うことが許されないからなんだね」
 昴は思わず息を呑んだ。同じ言葉でも、口にする人によって大きく意味が変わってくるのだと、そう思った。
 もう行かなきゃ。早くしないと、かぐや姫が来ちゃうよ。
 そういって外に出ようとした彼女を、昴は反射的に引き寄せ、その華奢な体を抱きしめた。突然の彼の行動に朔弥は驚いたが、けれどそこに嫌だという感情はなく、むしろ彼女は、彼の温もりを嬉しく思った。
「帰って来いよ」
 その言葉を伝えてはいけないと、知っていながらもそう言った彼の声は、少しだけ震えていた。人を愛する思いは、何より強く心に響くのかもしれない。昴の腕の中で、朔弥はそんなことを思った。
 じゃあ行こうと腕を緩めた昴は、扉を開ける直前、朔弥のその艶やかな唇にそっと口づけを落とした。

 家の前で昴と別れた朔弥は、かぐや姫を今か今かと待っていた。地面に小枝で円を描いてけんけんぱをしてみたり、石を集めて一人で五目並べをしてみたりと、彼女はいろいろな暇つぶしを試したのだが、退屈なものは退屈だった。
 寒さに手がかじかんできた頃、ようやく姫は現れた。彼女は月光に身を包み、供も連れずに空から下りてくる。羽衣を纏った彼女を見た朔弥は、寒くて凍え死んじゃったりしないかな、と思った。どうやら、目の前の姫が自分の敵であるとは認識していないらしい。
「お初にお目にかかります、月影朔弥と申します」
「ヴェノンの子孫だな」
 おそらくヴェノンというのは、月紗の本名なのだろう。かぐや姫は朔弥を一瞥すると、本当にそっくりだ、と呟いた。彼女の眼差しが一瞬揺らいだのは、朔弥の気のせいなのだろうか。
 けれどかぐや姫は、すぐに朔弥をキッと睨んだ。その視線はまるで氷点下十度の冷たさだと、朔弥は思った。氷点下の寒さを体験したことはないが、本当にそれぐらいの比喩が必要な程に冷ややかなのだ。それによって、この人は強いと、朔弥はそう暗示をかけられているような気がした。
「では、早速始めようか」
 何をですかと朔弥が尋ねる間もなく、かぐや姫は次々に光を放った。石器のように鋭いそれは朔弥の体すれすれの場所を飛行し、彼女の背後に立っている老木に突き刺さった。中には、突っ立っている朔弥の体に傷をつけていくものもあった。
 それを見た朔弥は、魔法はできるだけ使いたくないなと思った。何故なら、目の前のかぐや姫が、自らの目的を見失ったかのように力を振り回していたからだ。体が傷ついていくことはあまり気にならなかったが、自分もそんな風になってしまうのは嫌だなと、そう感じたのだ。
 ねえかぐや姫様、と朔弥は彼女に話しかけた。名前を呼ばれてもかぐや姫は何も言わなかったが、その瞳が自分のいるほうに動かされたと判断した朔弥は、彼女が聞いていることを信じて続けた。
「なぜそんなに人間が嫌いなの? 月都の人も人間も、似たような存在だと私は思うわ。ねえ、どうして?」
 朔弥が一方的に話していると思われていたが、意外にもかぐや姫はその問いに答えた。けれどその間にも、彼女が攻撃の手を止めることは無かった。
「人間と私たちは全然違う。人間と違って、私たちは穢れてなんかいないもの。人間の住む世界は全てが灰色で息苦しいし、お互いに傷つけ合いながら平然と生活しているなんて信じられないわ」
 だから人間が嫌いなのよ。そう言った姫の瞳は、乳白色と灰色が混じったように濁っていると、朔弥は思った。どれだけその白く滑らかな肌が傷つき血に汚れても、彼女はその場を動かなかった。
「それは違うと思うのは、私だけかしら。あなたはただ、側近だった月紗が黙って自分の元を去ったことが悲しかっただけ。自分が手にできなかった地球での幸せを得た月紗が羨ましかっただけ。地球が嫌いだという月人の思いとそれが混じって、本当の思いが分からなくなってしまった。違いますか?」
 今のあなたはとても苦しそうですよ。朔弥は姫と視線を合わせるように、心に語りかけるように、丁寧に言葉を紡いだ。最初に彼女の瞳が揺れたのは、懐かしい側仕えのことを思い出したからなのだと、朔弥は信じていたかった。
 朔弥の話を聞いたかぐや姫は、一瞬攻撃の手を止めた。その眼差しには、はっきりと深い悲しみが浮かんでいる。分かってもらえたかな、と朔弥は彼女に期待した。
 しかしその次の瞬間には、再び姫は力を放ち始めた。朔弥の目測が正しければ、それは先ほどよりもさらに鋭さを増している。
 それでも諦めずに再び話しかけようとした朔弥だったが、そのとき、彼女の脇腹を一番鋭いと思われる一筋の光が擦った。それは分厚いコートを切り裂いただけだったが、朔弥は命の危険を感じた。
 このままでは、通じ合う前に殺されてしまう。そうすれば、彼女は全人類を滅ぼすだろう。彼女を止められるのは朔弥だけなのだ。
 朔弥は大きく息を吸い込むと、脳裏に突然閃いた、謎の言葉の羅列を叫んだ。それは、かつて月紗が使った例の魔法だった。
 かぐや姫は、目を丸くして朔弥を見つめていた。信じられないというように呆然とする彼女の瞳は潤んでいた。それは、朔弥の姿を月紗と重ねたからかもしれなかった。
 朔弥は、自分の意識がだんだんと遠退いていくのを感じた。体に力が入らなくなり、その場に倒れてしまった。彼女が気を失う直前に目にしたのは、自分の顔を心配そうに除き込む姫の姿だった。

 コンビニの店番たちと言葉を交わしながらずっと外を眺めていた昴は、一瞬、全てが眩い光に包まれた気がした。それは放たれた強力な魔法であると、彼は直感で分かった。
 一、二、三、……と、左手首に巻かれた腕時計がゆっくり時を刻んでいく。朔弥はまだやって来ない。……五七、五八、五九。彼は店を飛び出した。
 今自分が生きているということは、朔弥は例の魔法を成功させたのだろうか。もしそうだとすれば、もう手遅れではないのか。そんなことを考えながら、彼はひたすらに地面を蹴り続けた。
 昴が息を切らしてたどり着いた時、そこに姫の姿はなかった。しかし、地面に倒れた朔弥の肩には、触れれば儚く消えてしまいそうな、この世の物とは思えないほどに美しい、淡く煌めく羽衣がかけられていた。
 顔に手を近づければ、幸い彼女はまだ息をしている。昴は上着のポケットから携帯電話を取り出して、番号一一九に電話をかけるため、震える指で発信ボタンを押した。
 朔弥のまわりには、六十七本の切れたミサンガが、連翹の花のように落ちていた。