事務仕事というのは、想像以上に体力を消耗するものだ。頭を使うし、ずっと座りっぱなしでは体に負担がかかる。体力にはそこそこ自信のあるほうではあるが、それでも、長時間の内勤はできれば避けたいところだ。
作業に一区切りついたところで壁の時計を見遣れば、すっかり夕方である。夕食にはまだ少し早くて、けれどもおやつタイムにすると夕食に響きそうな、ちょっと微妙な時間だ。
気分転換に散歩でもしようかと、パソコンの電源を落とした。海の方まで行って帰ってくれば、ちょうどいい時間になるだろう。
HAMAの海はいつだって綺麗だけれど、夕暮れ時のきらめきは一等美しい。揺れる水面を眺めていると、それだけで一日の疲れが吹き飛ぶような気すらしてくる。
時間の流れも忘れて手すりに凭れてぼんやりしていると、突然背後から名前を呼ばれて驚く。慌てて振り返れば、そこにはさらさらの金髪がふんわり風に揺れて、その奥の深い緑色と目が合った。
「來人さん?」
「やっぱり主任だったか」
「よくわかりましたね」
「まあ、人を見分けるのは得意なほうだからな」
珍しいこともあるものだ、と思う。
同じ寮に住んでいるし、生活圏もそう遠く外れているわけではないのに、各々のプライベートな時間に社員たちと出会うことは滅多にない。それぞれHAMAツアーズ以外の仕事があるから当たり前のことではあるのだが、こうして偶然街でエンカウントできるとびっくりする。
「お仕事の帰りですか?」
「いや、用事があって少し抜けてきただけなんだ。これからまた戻るところ」
「それはお疲れ様ですね」
彼のほうもそこまで急いでいるわけでもないらしいので、しばらく世間話に花を咲かせてみる。昨日読んだ本が面白かったとか、昼食が美味しかったとか、いくつかそんな話題が続いたところで、そういえば彼に聞いてみたいことがあるのだと思い出した。
「來人さん、このお店はもう行かれましたか? つい最近オープンしたって聞いて気になっているんですが」
スマホを取り出して、ブックマークしておいたラーメン屋のサイトを見せる。近頃、ラーメン情報を見聞きしてはメモに残す癖がついてしまった。
正直なところ、ラーメンは好きだが、週に何度も通ったり、新規開拓に力をいれたりするほどの熱はもっていない。出会ったばかりの頃、來人さんとの会話の糸口を増やしたくてラーメンの話題を集めていたら、それがすっかり習慣になってしまったのだ。
おかげで、HAMAのラーメン屋事情には妙に詳しくなってしまった。ついでに言えば美味しいスイーツの店や所謂映えスポットなんかも同様である。
「ああ、ちょうど一昨日行ってきたよ」
「どうでした?」
「良かったよ。おすすめは味噌」
「! 次の休みに行ってみます!」
來人さんが美味しいと言うのなら、間違いないだろう。楽しみだ。
そう思って勢いよく宣言すれば、來人さんは、少し困ったような顔で笑う。
「きみ、先々週も似たようなことを言って博多ラーメンの店に行ってなかったか? 俺に言えたことではないが、あまり頻繁だと雪風あたりに怒られそうだ」
「……バレないように気をつけます」
外食続きと知られたら、幼馴染のお叱りと拗ね具合があまりよろしくないことになる予感がする。これだけは絶対に隠し通さなければならない。
來人さんはちらりと腕時計を確認すると、そろそろ行くよ、と踵を返した。まだ仕事があるというのに、かなり長いこと引き止めてしまって悪いことをしたなと思うけれど、それでもすみませんとこちらに言わせる隙を作らないのが彼のスマートさである。
なんて考えていると、何歩か進み始めていたはずの來人さんが戻ってきて、鞄から何かを取り出した。
「これを忘れるところだった。今のうちに渡しておくよ」
はいどうぞ、と夕班のカセットテープを差し出される。オレンジ色のそれを受け取ってしまってから気づく、既視感。
「……週報ですか?」
「いや、違うよ。昨日、凪から同じようなものを受け取らなかったか?」
もしやと思ってカセットをひっくり返してみれば、A面タイトルに『特別版#03』の文字。昨日もらったものから一つ数字が減っている。
「ええ、まあ、はい」
「そういうことだ」
「おふたりがグルだってことですか?」
「当たらずも遠からずってところだな。共犯者は他にもいるし」
凪さん來人さんと続いたなら、残りの共犯者というのは朝班昼班の班長たちだろうか。数字も班の順番だと言われれば納得がいく。
まあ、それがわかったところで、意図は掴めないままなのだが。区長たちが自分に向けてメッセージをくれたということ自体はかなり嬉しいので、ひとまず素直に受け取っておくことにする。
「あの、來人さん」
「……何か?」
「その、ええと、」
口を開いたはいいものの、向こうがはっきり示そうとしないのにありがとうというのもなんだか変な気がした。
代わりに、言い淀んで、迷って、ずっと気にかけていたことを聞いてみる。
「夕焼け、好きですか?」
彼は一瞬目を見張って、彼にしては珍しく、言葉を選ぶように視線を海のほうへ逸らしたけれど。
「……どうかな」
そう言った彼の横顔は、答えを濁したにしては随分と柔らかくて。
何がとはうまく言えないけれど、きっと大丈夫だな、なんて思った。
「それじゃあ今度こそ行くよ」
「はい、また寮で」
夕食のあと、部屋に戻って、貰ったカセットを再生した。
『百目鬼潜だよ。最近トレーニング室の機械が増えたのは君のおかげらしい。気が効くねぇ、これからも頼んだよ』
『えー、木ノ内太緒です。いつもお世話になってます。よかったら、今度一緒に呑みましょう』
『ちぃだよんっ。主任、いっつもお仕事お疲れさま! また映えスポット探ししようね☆』
『畔川畿成です。マスター、いつもありがとうございます。過ぎた労働は、人の身にはよくありません。効率的な休息方法を、今度、勧めにいきます』
『北片來人だ。主任、毎日お疲れ様。いつも俺が喜ぶだろうとラーメンの話を振ってくれるけど、俺はその姿勢自体が嬉しいよ』
『今度のライブ、主任に特等席用意するから、ぜひ観に来てください』
『以上、夕班からでした〜』
週報カセット特別版 #03
夕班 / 主任視点